2017年1月29日「人生の最も大切な二つの問い」(聖書 ヨハネ21:1〜22、中心聖句 ヨハネ21:15) ( 1.30/2017 )
説教者:横田法路師
聖書 ヨハネ21:1〜22、中心聖句 ヨハネ21:15

ヨハネ
21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
21:20 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
21:21 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。


1.ゆるしと和解の食事(21:1-14)
 ペテロは復活の主に出会ったにも関わらず、昔の生活(漁師)に戻ろうとしました。私たちも、どんな失敗や罪を犯したとしても、十字架の前に行き、十字架を見上げる時、イエス様は赦して下さるのです。それなのに、赦しの恵みを受け取りきれないところがあります。イエス様は彼を見放すことなく、彼らのために食事を準備し招いて下さいました(9)。ユダヤ人にとって、食事を共にするということは赦しを意味するのです。敵とは食事をしないのです。私たちが気付き理解する遥か前からイエス様は私たちを赦し、愛して下さっていたのです。人生の荒波の中で、「主よどこにおられるのですか」とイエス様を見失ってしまうことがあるかもしれません。私たちが見失ったからと言って、イエス様は私たちの側に立って、赦しの食事を準備し招いて下さっているのです。今朝も、私たちはその食事に招かれているのです。私たちの方で制限することなく、イエス様の赦しを受け取りましょう。私たちはただ受け取るだけで良いのです。今も同じ主が私たちを守り、確かに働き、導いて下さっているのです。「後知るべし」です。

2.愛の告白(21:15-17)
 イエス様が関心を持っておられることは、ただ一つ「あなたはわたしを愛するか」ということだけです。私たちの全ては、このイエス様への愛から出て来るからです。イエス様は本当に良いものを引き出して下さるのです。たとえ良い動機で始めたとしても、いつの間にか他のものにすり替わっていないでしょうか。今やっていること、考えていること、どこから出て来ているのか、もう一度考えてみましょう。何が出来なかったとしても、心がいつもイエス様に向かい、イエス様への愛が心にあるならば心配はありません。初めの愛に戻りましょう。最初にイエス様を知ったあの感動の場に立ちましょう。そこから出発して参りましょう。

3.主への従順(21:18-22)
 ペテロは主の愛を確信しつつも他の人が目に入り、気になってしまったのです。他の人を見て、また主から目を離しそうになってしまったのです。「あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい(22)」。主が示された道を行きなさい。神さまは私たち一人ひとりにとっておきの人生を用意して下さっているのです。それぞれの人・教会に、神様の栄光をあらわすため、神様が示して下さる道を準備して下さっているのです。主が示された道を歩んで参りましょう。一人ひとりを格別に愛して下さっている神様が、それぞれに道を用意し下さっています。どの道も簡単ではないでしょう。苦労や試練もあることでしょう。同じ苦労をするならば、主が用意して下さる道を歩んで参りましょう。主の道こそが栄光の道なのです。主を仰ぎながら、今やるべきこと、今できることをやって参りましょう。全ては益になることでしょう。

「あなたはわたしを愛しますか?」「主よ、わたしはあなたを愛します」、
「あなたはわたしに従いますか?」「主よ、わたしはあなたに従います」という人生の最も大切な問いに応答する者でありますように。

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