2017年2月26日「イエスが愛されたように」(聖書 ヨハネ13:1-15、中心聖句 ヨハネ13:34-35) ( 3.2/2017 )
説教者:横田法路師

聖書 ヨハネ13:1-15、中心聖句 ヨハネ13:34-35

ヨハネ
13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
13:2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
13:5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
13:7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
13:8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
13:9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
13:10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
13:11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
13:12 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
13:13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
13:14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。

13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。


 ヨハネによる福音書13-16章は、イエス様の告別説教と言われています。イエス様が十字架に架かられる前、弟子たちに伝えた大切なメッセージ、新しい戒めです(34-35)。神様は旧約の時代から、神の民に愛することを教えて来られました。ここで言われているのは、新しい意味で「愛するとはどういうことか、聖霊を通してイエス様が愛されたように愛する力を送って下さること、その力をもって互いに愛し合いなさい」と言う事です。

1.最後まで(極みまで)愛される愛
 イエス様は弟子たちの足を洗われましたが、愛をあらわす愛の行為として、またシンボリックなものとして描かれました。
 この時足を洗ってもらった弟子たちの中には、この後3度主を裏切るペテロも、銀貨30枚で主を裏切るイスカリオテのユダも入っていました。イエス様はどのような状況にあったとしても、最後まで愛し通される御方です。私たちも何度主を失望させ、裏切ってきたことでしょうか。主のように極みまで愛して参りましょう。

2.自分を与える(自己犠牲の)愛
 当時の風習として、僕や奴隷がお客様の足を洗う事は大切なおもてなしの行為でした。イエス様こそが足を洗われるべき御方だったにもかかわらず、弟子たちは譲り合い、擦り付け合ったのです。
 愛するとは動詞です。自ら行動を起こす事です。神様のアガペーの愛とは、神様、イエス様の方から行動を起こして下さったのです(Tヨハネ4:10)。「神がまずわたしたちを愛して下さった(19)」のです。この神様の愛に応答して、愛された私たちがまず愛するのです。王の王であられ、僕となる理由も必要もないイエス様がご自分の栄光・権威を捨てて、空っぽになって自分自身を与え、人となって下さいました(ピリピ2:4-9)。これが仕えると言う事です。
 私たちの小さなプライドが神様や人との関係で邪魔をしているのではないでしょうか。十字架は、最も大切な命を私たちのために捨てて下さった愛をあらわしています(ヨハネ15:12-13)。十字架の愛は、人間の愛とは違います(Tヨハネ3:16)。いのちとは、肉体の命だけでなく、時間だと言われます。愛するとは、私たちに与えられている大切な時間を誰かのために使う事なのです。

3.聖なる交わりを望まれる愛
 足を洗われたのは、人格的に交わる象徴的な行為でありました。イエス様を信じた者は、罪赦され、義とされますが、私たちがイエス様を信じたからと言って、全く罪を犯さなくなる訳ではありません。罪を犯したままで放っておいてはなりません。イエス様との生きた交わりを保つためには、罪を犯した事に気付いたならば、主の前に悔い改め、十字架の光の中できよめて頂きいつもイエス様との交わりを保つ事が大切です(Tヨハネ1:7-9)。

 イエス様は、愛することを助けて下さる聖霊様、真理の御霊、助け主(パラクレートス=傍らに呼び出されて立つもの)を送って下さいました(ヨハネ14:15-17)。

 そして、私たちが互いに愛し合うならば、人々が私たちの内におられるイエス様を認めることでしょう(13:35)。「面倒でもしよう」と十字架を負うて、一つ一つの小さな愛の業を繋げていく時、復活の霊が働き、神様の御栄光があらわされていくことでしょう。

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