2017年3月19日「心の健康」(聖 書 詩篇131篇、マルコ1:9〜11、中心聖句 マルコ1:11) ( 3.24/2017 )
説教者:横田法路師

聖 書 詩篇131篇、マルコ1:9〜11、中心聖句 マルコ1:11

詩篇131
ダビデがよんだ都もうでの歌
131:1 主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と/くすしきわざとに関係いたしません。
131:2 かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。
131:3 イスラエルよ、今からとこしえに/主によって望みをいだけ。

マルコ
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
1:11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。


 体の健康は大切ですが、体と心は繋がっています。忙しい現代において、心が壊れてしまわないように、幸いな人生を送るため、心が健康でなければなりません。そのために大切なことを今日の箇所から見て参りましょう。

1.手離すこと、委ねること(詩131:1)
 この詩篇の作者ダビデは、イスラエルの王として大きな責任を抱えていました。国の最高権力者でありながら、「主よ」と神様を崇め、自分にはコントロールできないことがあることを認めていました。私たちそれぞれ、仕事や親としていろいろな責任があるでしょう。私たちは他人の気持ちや感情をコントロールできないと認めることです。自分にできることとできないことがあることを認めることです。「わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません(1)」。高ぶらないこと、高慢にならないことです。自分を信じることは、人や自分を裁くことに繋がります。それは人間の行いによる、律法による生き方です。神様を信頼し、神様を認め、神様の恵みの中に生きることです。

2.包まれること(131:2)
 「乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです(2)」。ダビデは、幼子が母に抱かれるように平安でした。私たちも心の重荷を本当に下ろせる場所が必要です。愛なる神様は真の父であり、その神様の御前は、全ての重荷を下ろし休める場所なのです。神様は私たちをも同じ愛で包んでくださっているのです。神様は私たちを無条件で愛してくださるのです。毎朝、天のお父様の御前に出て、御言葉を通して愛されていることを確認し、日々歩んで行くことです。このような生活を繰り返して行く時、私たちの重荷は次第に軽くなって行くことでしょう。

3.仰ぎ見ること(131:3)
 「今からとこしえに主によって望みをいだけ」。今は、希望を持ちにくい時代かもしれませんが、全能の愛なる神様を信頼して歩んで行く時、希望を持つことができるのです。自分の持っている力だけを見るならば、先が見えてしまうでしょう。しかし、愛なる神様に信頼して歩んで行く時、希望を持つことができるのです。
 希望を持つと、祈りという行為に移っていけるのです。祈りとは、神様を信頼することです。祈っている人とは、神を信頼している人であり、神を信頼している人は、祈ることができるのです。人間的に見るならば、不可能と思える時にも、祈っている時、神様の奇跡が起きて行くのです。自分でも祈ることでしょうが、家族、教会の祈りが積まれる時、その祈りに応え、神様が奇跡のみわざをなしてくださることでしょう。
 たとえ、今どのような状況にあったとしても、先が見えない状況の中にあったとしても、神様に信頼して歩んで行くことです。私たちが神の子どもになるためもには何の手続きも必要ありません。ただ、イエス・キリストを救い主として信じるだけでよいのです。イエス様を信じて祈る時、神の子として迎え入れ、愛してくださるのです。

TOP