2017年4月9日「受難週を迎えて」(聖 書 マルコ14:8〜11、中心聖句 マルコ14:8〜9) ( 4.12/2017 )
説教者:横田武幸師

聖 書 マルコ14:8〜11、中心聖句 マルコ14:8〜9
マルコ
14:8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
14:9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
14:10 ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。
14:11 彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。


 「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである(Uコリント12:10)」。私たち人間は弱い存在です。肉体の弱さ、意志の弱さ、誘惑に対する弱さなどがあります。弱い時にどうすれば良いのでしょうか。私たちは弱さを覚えた時こそ、お祈りすればよいのです。神様に依り頼むことです。私たちは自分の強さを誇るならば、試練に遭った時、倒れてしまうことでしょう。けんかをした場合でも、たとえ相手がどんなに強い人でも、負けない方法を知っているならば勝つことができるでしょう。何事にも中途半端な心で立ち向かうのではなく、真剣に取り組むことです。いい加減な姿勢でいるならば、この世の誘惑に負けてしまうことでしょう。私たちが信じる神様は、天地万物の創り主であり、天の父なる神様です(創世記1:1)。この神様が私たちを愛し、守り導いてくださるのです。この神様に祈り、苦難や試練の時に呼び求めるならば、必ず応えてくださることでしょう。そして、聖書に全て書いてくださっているのです。「悩みの日にわたしを呼べ(詩篇50:15)」と言ってくださるのです。自分のためだけでなく、夫や妻、子ども、親のため、祈り求めることです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである(マタイ7:7-8)」。サタンはいつも私たちを狙っています。信仰が中途半端なままでいるならば、悪の誘いに引っ張られてしまいます。この世にあるのは戦場にあるようなものです。いつまでも親に守られているような環境にいる訳ではありません。次第に外の世界に出て行かなければならないのです。信仰に堅く立って揺り動かされず、歩んで行かなければならないのです。

 今日の箇所で、イスカリオテのユダは銀貨30枚でイエス様を売り渡しました。ユダは接吻をもってイエス様を裏切ったのです(マルコ14:44-45、ルカ22:48)。私たちには、敵との戦いだけでなく、心の中に自分との戦いもあるのです。雄々しく、また強くありなさいと言って神様が共にいてくださるのです。神様に祈り求め、祈りに応えられ、神様が助け主であることを経験するならば、次に試練が来たとしても、また勝利することができると確信が与えられ、人生を生きる姿勢にもあらわれてくることでしょう。イエス様でさえ、サタンから誘惑を受けました。「サタンよ、退け(マタイ4:10)」と御言葉をもって勝利されました。
 救い主としてご自分の命さえ捨ててくださるイエス様に感謝の気持ちをあらわすため、この女性はできる限りの事をしました(マルコ14:8-9)。彼女は、ささげるべき御方、ささげるべき時を知っていたのです。私たちもこの女性のように、ささげる人生を送って行きたいものです。ささげたらなくなるのではありません。主のためにささげた時間、お金、全てを神様が喜んでくださり、時が来たならば、溢れるばかりに報いてくださることでしょう。滅びるべき私たちを贖い出してくださったのですから、いくら感謝してもし過ぎることはないのです。死に方を通して、神の御名が崇められますように。一度きりの人生、私たちのために十字架にまで架かり贖ってくださった主のため、生きるのも死ぬのも主のためでありますように。主に仕え、真心を尽くし、信仰の戦いを立派に戦い抜き、走るべき行程を走り抜き、義の冠をいただきましょう。

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