〔10〕 十字架の言 ( 7.14/2006 )
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
(コリント人への第1の手紙1章18節)

今日の御言は、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」というこの有名な、そして大切な御言でございます。十字架の言とは何でしょう。十字架の言とは、イエス・キリスト様のことです。十字架の上にはりつけになったイエス・キリスト様のことです。この十字架はわたしたちのための十字架でありますが、滅び行く者には、すなわちイエス・キリスト様を知らない、イエス・キリスト様に背を向ける人々にとっては、真に、愚かな者のように思えるわけです。英語の聖書を見ますと、「愚か」と書いてある所は、十字架の言は「ナンセンス」だと書いてある。無意味だ。滅んで行く人々にとってはイエス様の十字架というものは、至ってナンセンス、しかし救いにあずかった者、イエス・キリストを信じて行く者にとっては、これはすばらしい「力」だと御言は語っているのですね。

この手紙は「コリント人への第一の手紙」と記されているように、コリントの教会に宛てた使徒パウロの手紙です。ある方は御存じでありましょう。コリントという町は、まことに乱れはてた町です、淫蕩の町でした。経済的には豊かでありましたが、道徳的には至って低い町でありました。その町にある教会へ、使徒パウロが手紙を書いたのです。イエス・キリストを信ずる者には力がある、イエス・キリストは我等に力をあたえて下さるというのであります。これは、使徒パウロ自身の体験から出た強い強い確信の言葉です。また使徒パウロが生命をかけて、イエス・キリスト様の事をお伝えし、また伝えつづけていたメッセージの中心でした。キリストの御言を伝えます。その御言を受けとめます。そこに人の心は変っていくのです。

只今も浅井先生と天野姉妹がイエス・キリストによる救いの証しをされました。お年を召された人であれ、若者であれ、「イエス・キリストをわたしは信じます」と宣言をする時に、人間は根本的に生れ変って行くのです。これはすばらしい事ではありませんか。人々は人間の心を変えようと、あれこれ真理を探究いたします。しかし、人間の心を造り変えることのできるのは「十字架の言」、すなわちイエス・キリスト様おひと方なのです。

この午後お集いの皆様はイエス様を信じていらっしゃいますか。信じていらっしゃるとわたしは思います。しかし今まで教会に通い、聖書をお読みになりながら、まだまだ信じられぬ、信じられぬと言い続けておられる方が、あるいはおられるかもしれません。しかし今日、この所で、主イエス・キリストを「我が主、我が救主、我が王、我が神」と信じ、祈って行く時に、あなたは変ることができるのです。さて、「十字架の言は滅び行く者には、愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力だ」と言いました。御言はそう語っています。この力というのは、ギリシャ語の原文でドゥナミスという言葉を使っていますね。

ドゥナミスというのは御存じのようにダイナマイトの語源です。またダイナミクス、ダイナモという言葉の語源です。イエス・キリストの言葉は、滅び行く者には、ナンセンスかもしれませんが、信ずる者にはダイナマイトのような強い力があるというのです。皆さん、ダイナマイトの爆発するのを見た事がありますか? わたしは見た事があります。岩の中に穴を掘ってですね、ダイナマイトを仕掛けます。遠くはなれた所でスイッチを入れます。そうするとどうでしょう、あの堅い岩盤が、人の手ではどうしようもない岩盤がドカンと崩れて行くのです。これは人間の堅い心や人間の運命、わたしは悲しい星の下に生れて来たという宿命、わたしはもう駄目だと思っている絶望…にも、イエス・キリストを信じていくならば、その人の内側から、ダダダダダーンとダイナマイトの力で岩を砕くように解決されていくのです。十字架の言は、滅び行く者には、ナンセンスかも知れない。しかし、キリスト教の歴史が2000年続いておりますが、信じる者はみな救われ、信じる者はみな潔められ、信じる者はみな新しくされて来たのです。

今日、わたしたちはこのイエス様を信じ、受け入れ、変えられていかなくてはならないのです。さて、イエス・キリストの十字架はわたしたち人間を変えると申しましたが、第一番目は、人間の罪を、潔めるのです。皆さんは罪を馬鹿にしないと思います。しかしある人達は罪を軽く見、罪をたいした事ではない、罪を犯しても何だと考える人が多く居るのです。罪、罪、罪が何だ、皆犯しているではないか、これくらいの事はいいじゃないか、汚れた事を少々やっても、そこには面白さがあるではないかと。ああ、皆さん、これが多くの人々の罪を犯していく理由であります。「皆やっている」「これくらいの事」「ばれてもいいじゃないか」と。これが人間の人格をむしばみ、その家庭を破滅におしやり、その人生を狂わせて行くのです。そして、その終わりはどうでしょうか、その果ては永遠の滅亡なのです。

わたしは九州へ参りまして、16年になるのです。昭和38年2月の寒い、みぞれ降る日にわたしは博多駅に着きました。まだ古い博多駅でありました。しょぼしょぼと、みぞれが降っている夜でありました。1人で九州の地にやって来たのです。何しにやって来たか? 物見遊山ではない。神様から、横田よ、お前は福岡の地に伝道に行けよと言われたからです。出迎えをうけてわたしは昔の教会、高砂2丁目8ノ16にあった4軒長屋の1番はしっこにある、かたむきかけた教会にやって来ました。ああ、神様はですね、すばらしい事をして下さった。そこから出発して現在はこういうようなすばらしい教会になって来たわけです。神様はわたしたちに御言の力を実証して下さった。まあその事を話したら長くなりますのでまた次の機会にいたします。

ある年の事でした。日向のある教会から、「わたしたちの教会に10周年記念の特別伝道集会がありますから横田先生、講師としておいで下さい」という事でね、初めて日向という所に行きました。熊本まで汽車で行き、そこで豊肥線に乗りかえるんです。時は5月、阿蘇の外輪山はよかったですね。わたしは初めてです。車窓から外の美しさに見入りました。阿蘇は、2月も3月も噴煙は出ているかもしれませんが、やっぱり緑のシーズンがいいなあと思いました。緑があまり美しいので、わたしの前に座っていらっしゃる男の方に、「ああ、緑がきれいですね」と言いましたら、その人は、「そうですか」感激がないのです。この人はいつも見ているからかもしれませんね。わたしは初めて見るものですから「きれいですね」と感嘆したのです。緑のビロードを敷きつめたような、阿蘇の緑の美しさ。「ああきれいだな! あんな所に寝ころんだら気持ちいいだろうなあ」、あそこでころころと、回ったらどんなに気持ち良いことだろう、そう思ったのです。遠くから見ていてきれいな草はどんな草だろう。だんだん、汽車が上って行くので見ていますと、おっとどっこい何でしょうか、茅かやとね、あざみが生えているのです。遠くから見ていると、きれいな緑のビロードのように見えても、あそこに寝ころんでごらんなさい、首が切れてしまうかも知れません、茅で。それと同じく、人間の場合も、外側から見ると美しく、やわらかく見えるが、近づいて見れば、悩みがあり、そして人間の心の中には、淫行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、うらみ、争い、ねたみ、憤り、徒党、分離、異端、そねみ、酔酒、宴楽、等々。こういうものが人間の心の中にはあるのです。

「手に取るなそっと野におけ蓮華草」という句があります。近づいて見るならば、自分自身いやになるようなものが自らの中にあるのではないでしょうか。しかしイエス・キリストは、十字架の上に釘づけられました。それは何のためですか。人間が自分ではどうしようもない、その汚れと罪をイエス・キリスト様が十字架の上においてキッパリと背負って下さったのです。旧約聖書を見る時、人間が罪を犯したならば、動物を犠牲として捧げた。ある人は羊を、ある人は山羊を、ある人は牛を殺して、自分の罪の身代りとしたのです。罪も汚れもないその小羊を殺したのです。無残なやり方ではありますが、血を流す事によって、人間の罪は赦されるというきまりがあったものですから。

しかし新約聖書は、イエス・キリスト様がおいでになられてからは、もうそのような羊も必要でない、山羊も必要でなければ、牛も必要ではない。なぜならば、「神の小羊」といわれるイエス・キリスト様が十字架の上で、はりつけになったからです。「見よ、これぞ世の罪を取り除く神の小羊」と御言にございます。イエス様がわたしたちの罪を背負って下さった。わたしが頼みますとお願いしたからでなく、イエス様自らすすんで人間の罪、人間の汚れ、すなわち、これを持っていては決して人間が幸せな生活はできない、これは人間の不幸の原因だというその罪を、十字架の上で背負って下さった。ですからコリント第1・1章18節には、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」すなわち我等の罪をイエス・キリスト様は、潔めて下さった。我等は頭の頂から足の裏まで、イザヤの言葉で言うならば「腫物と、打ち傷」で満ちているのです。

「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ1・18)皆さん、十字架を覚えていただきたい。この十字架は無意味ではないです。十字架は我等の罪を赦し、潔めて下さる。すばらしい!! パウロはこのイエス様の十字架をコリントに伝えたかった。ギリシャのコリントという町、堕落した町でありました。経済的には非常に豊かな町でありました。そして学術も盛んでした。哲学も盛んでした。しかし、パウロはその町に伝道する時に、こう言いました。「わたしは十字架一本、十字架のみをわたしは伝える」。パウロは十字架以外のものは知らないのかと言われる程に、彼は十字架を語り、十字架を最後まで語り続けると言った。なぜか、ここに人間の罪の赦し、人間の潔めの道、救いの道があるからです。
第2番目、十字架というものは、わたしたちの罪を赦し、わたしたちの品性を潔めて下さるというばかりではありません。わたしたちの運命を変えて下さるんですよ。十字架を信ずる時に、わたしたちの人生が変えられていくのです。わたしたちの内側から、潔められるばかりでなく、わたしたちの人生も変り、運命も変るのです。

わたしどもの油山の教会にも色々な人が居るんです。1人ね、紹介したい方が居ります。この方はアルコール中毒でしたが、今は本当にすばらしい生活を送っているんですよね。最初はね、大酒飲みで、あわれな生活をしていたのです。青年の頃「青雲の志」をいだいて東京に出たのです。そして東京でも事業を興したけれども、身についた酒が止められないで、ある時は、長靴で銀座のキャバレーにまで出かけ「九州男児だ」、なんて行って蛮声をはり上げていたのです。何が9州男児ですかね。やがて事業も失敗し、「東京が駄目なら名古屋があるさ、名古屋が駄目なら、なんとかがあるさ」というように、とうとう流れ流れて博多にまでたどり着いて来た。博多に就いて何をしたかと言いますとね、豆腐の行商をした。食べなくちゃならないから。自転車の後にカンカンを積んでですね。豆腐を何丁かいれて、本当にわずかなものですよね。そして売れてしまったら、酒屋の前を素通りできないで、角打ちをキューとやって、帰ってゴロッと寝るのが生活だった。しかし、この方にも福音の光が入った。止めたい止めたいという酒を、彼は止める事ができた。それに打ち勝つ事ができた。もうイエス様を信ずる迄はですね、まあ酒の奴隷ですから、酒がちょっとおいでと言ったら、フラーッと、酒がこっちだよと言えばフーッと、本当に奴隷という者はかわいそうなものですよ。招かれるまま、行けと言えば行き、来いと言えば来る。

イエス様の奴隷だったらよいのですが、酒の奴隷だった彼は、これではいけないと思っていたのです。ですから、アンタブースという劇薬を飲んででも酒を飲むのを止めたいと思ったこともあったそうですよ。アンタブースを飲んで酒を飲んだら心臓がドドッ、ドドッといって苦しくなって来る、それでお酒が飲めなくなる。しかし信仰のない世界にいた彼は、アンタブースを飲むのを止めて、酒だけを飲んだそうです。しかしイエス様の所に来た時どうでしょうか、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」こちらにおいでと言ったらフーッと行き、あちらにおいでと言ったらフーッと行くような罪と、その悪癖からのがれられることのできなかった、奴隷であったその兄弟も救われた、最低の生活でした。あわれと言うべき生活でありましたが、今はどうでしょう、教会の忠実な信徒として奥様と共に一生懸命奉仕されているんですよ。

皆さん、イエス・キリストの十字架の力は、そのような人間、ほっといたらもうこの人はどうなったであろうか、罪と汚れ、そして無目的、そして、その日その日の生活に終わってしまうような人間でも、みごとに方向転換したのです。神を愛し、人を愛し、人々の幸せのために、その時間、その労力を、その財を、用いる事ができるような生き方に。1人の人間が救われる時に、その家族が変えられ、その周りの人々が変えられて来るのです。イエス様の十字架は、決して、無意味で無力なものではない。キリストの十字架こそは、信ずる者をつくり変えて下さるのです。いかなる運命をも変えるのです。わたしだけは駄目じゃないだろうか。わたしのこの弱さ、この悪い癖は、どうしようもないのではなかろうか。人には言えないけれども、心の中には本当に悩みがあるのです。しかし皆さん、あなたにもイエス・キリスト様は力を与えて下さるのですよ。

第3番目に、人間の罪を潔める、人間の運命を変える。それだけではない。人間の最後の敵は何ですか、人間の最後の敵は死です。死に打ち勝つ力、死を恐れないで、それを貫いて進んで行く、その希望を与えるのが、イエス・キリスト様の十字架なのです。死というものは、皆に公平にやって来ますから、かっこいい事ばかり言っておれないのです。山室軍平先生の「平民の福音」というのを読んだ事がありますか? その本の中に、「ラルネーの無神論」というのが載っております。このラルネーという人は、「神なんかあるものか、神なんか信じなくていいよ。神を信じる者は愚か者よ」と言ってですね、無神論を誇りとして語っていた人物であったようです。ところがラルネーが船に乗って旅行をしていた時に嵐に遭った。そうするとみんなもう沈むのではないか、この船は大丈夫だろうか、「おお神様助けて下さい」「ああ神様、助けて下さい」と祈っていたわけです。無神論を日頃唱えているラルネーさんも、船の隅の方で、「おお神様、助けて下さい」とお祈りをしていたというのです。幸いその船は沈没する事もなく目指す港に着いた。皆、船からおりて行きました。その時、誰言うともなく「ラルネーの無神論は陸の上では通用するが、海の上では通用しない」と言ったそうです。

人間には、建前と本音というのがあります。虚勢を張ったり、あるいは、何とかかんとか言って、神を信じるなんて、そんな弱虫じゃないよ。俺は俺の力でやるんだとか言います。わたしも言ってきました。いやそう言わないと女々しいとでも思うのです。そうじゃないですね。だれにも公平に訪れて来る死の問題は、神様を信じない限り解決はつかないのです。昨年、九州聖会の講師としておいでになった本郷善次郎先生が、なぜ伝道者になられたかというお証しをなさいました。先生は、岡山の医科大学の医学生として勉強しておられた。自分の親しい、本当に親しい友人が病気でなくなった。その臨終の床で、家族の人達が「誰それちゃん」、「誰それ!!」、父母、兄弟、親族の者達が、今まさに息を引き取ろうとする者に、しがみついて名を呼ぶ。しかし、返事はもうできない。その悲しみの中に、嘆いている人々を慰める事もできない。そういう親友の死の現実を見る時、本当の希望を与えるものはないものだろうか、どうしたらこの人達に死を乗り越え希望と慰めを与える事ができるのだろうか、自分も友人の死を見て、ああ無力だなあと思っていた。

やがて彼は、死の解決者である、イエス・キリスト様を宣べ伝える伝道者になっていくのです。できる事なら千年も万年も生きたいわ、というセリフがあるように、生きたいわけです。しかし、わたしたちは皆死ななくてはならない。しかし死にたくない。「いや、わたし、何でもないですよ」と言いますけれども、人間は死後の事や、天国の話とか、そんな話はあまり好きでないようですよ。しかし自分が夜、真暗な時ですね、ああこれで5回息吸って6回目にはもう息が吸えんようになってしまうのかなあと思ってね、ちょっとためしてみる、あまりいい気持しないですね。なぜ人間は死ぬ時恐れがあるのか。死は全くの孤独なんですね。愛する妻が、親が、子供が、「お父さん」「あなた」と呼んで下さっても、一人きりで死んで行かねばならぬ。死ぬのは1人1人です。霊魂は全く孤独です。わたしたちは、その孤独に耐えられないから、死という事を考える時、本能的にそれを拒絶するのですよ。孤独に耐えられないのです。ですから学生が下宿してても、ああ寂しいなあと何となくうろうろしている。別に外に出て行く用事も無いのに、どこかのラーメン屋さんへでもはいろうか、コーヒーショップでもはいろうかとですね。

しかし死の孤独は、もはや何によっても、まぎらわす事はできないのです。その時、あなたならどうするでしょうか。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」今一つ、死はなぜ不安であり、なぜいやか。死んだら何処へ行き、どうなるのか分からないからである。わたしの先輩の牧師先生ですが、若い時に結核にかかって死にかかった。その時、「お母さん、僕の手をしっかり握って、強く握って、おそろしい。何処へ行くのか分からない、おそろしい、暗い暗い」と言ったというんです。「死んだらハイそれまでよ、灰になってふっと、何処かへ風に吹かれて気ままな、飛び方をするまでよ」と言うかもしれません。そうじゃあない。聖書には一度人が死ぬ事と審判を受ける事は、確定していると言うのです。人が肉体をもって生れて来ていますが、それと同時に、人間はかならず一度は死ぬ、死んだ後で、裁きを受ける事はみんな確定している。どこかへ行くのではない、分からない所に行くのではない。それぞれのしわざに応じた審判を受けるために、神の御前にわたしたちは立つのです。これが聖書が語っているところです。

この死に打ち勝つ道はないものでしょうか。イエス・キリストだけが「我は道なり、真理なり、生命なり」といわれた。わたしたちが死のうとする時、誰も共に行ってくれません。どんなに大声で叫ぼうが、どんなにお母さんが「ここにおるよ、わかるね」と言っても、一緒に行けない。わたしたちと共にいて下さり、その死の川波を共に乗り越える事ができるのは、神なるキリスト様だけですよ。「我、汝と共なり、我、汝の神なり。我、汝を守らん。我、汝を祝さん。そして我、汝を平安ならしめん」と言うのは神なるキリストだけです。このキリストを信じていく時に、わたしたちは最後の敵である「死」にも打ち勝つ事が可能なのです。

大阪の中学校の教師、丹羽兄のことを話しましょう。彼は山登りが好きなものですから、同じ教師の友人と冬山に登った。冬山で吹雪に遭い、一寸先が分らなくなって来ました。「父親が行くなととめた時、やめとけばよかった」と後悔したけれど、後悔先に立たずですね。吹雪の中をうろうろしていた時に、彼は転落したのです。ザイルで友達と結んでいた。よかったですね。ザイルで結んでいたので宙ぶらりんになった。一方の友人は岩にしがみついた、吹雪の中です。その友人は丹羽君の体重がどんどんかかって来るからですね、このままだったら、もろ共に転落して死ぬかもわからぬと思った。友人はポケットからナイフを出して、「丹羽、ごめんよ」と言って生命の綱であるザイルを切ろうとした。当の丹羽君は転落したはずみに気を失ってしまった。切られるのも知らないのでした。その切ろうとした時に、どういうはずみかその友人が足をすべらして転落した。今度は丹羽君がハッと気がつき、岩にしがみついた。そして友人が下で宙ぶらりんになった。この時はね、「己がはかりにてはからるべし」と書いてありますが、友人はどうされると思ったですか、自分の方が切り落とされると思った。切られたら大変と思い、「オーイ、丹羽、切るなー、切るなー」吹雪の中で、絶叫したのです。

一方、丹羽君は高一の時に教会に導かれていたんですね。わたしたちの路傍伝道の時、彼は映画の看板を見に来たのです。路傍伝道している横に映画の看板がありましたから。ところがわたしの家内が(その当時はまだ家内ではなかったですが)「あなたはよく来ましたね。集会に来たんですか」と聞いたんですが、「いや、映画の看板を見に来ました」「そう、でもいいですから名前を書いて下さい」ということで住所と名前を聞いたので葉書を出した。その葉書を持って教会を訪ねて来た兄弟なのです。「切るなー、切るなー」と言うその絶叫を耳に入れながら、しばらく考えたそうです。切り落とそうか、どうかという考えではなかったんです。それは自分が今まで過して来た日を思い起こしたのです。

大学4年の時の母の死、教会を訪れたあの日、そして家族の事、あの事この事、と前後色々の事が、すーっと走馬燈のように思いめぐらされたわけです。教会へ行き、「子よ、心安かれ、汝の罪赦されたり」というイエス様の御言を聞いた事を思い出した。「ハッ!」ときたという。わたしはイエス様を信じた。わたしはイエス様を信じている。わたしの罪はイエス様の十字架によって赦されている。わたしは今死んでも永遠の生命をもっている。神の国にはいれる。イエス様の前に恐れなく立つ事ができる。彼は吹雪の中、岩にしがみつきながら「ああ、わたしはイエス様を信じてよかった」と思い、また、「わたしは救われている」と感謝した。人間が、その極限状態に立たされた時、本心が出てくるわけであります。彼とて人の子です。切り落とそうとしたその友人と何等変らない人間です。しかし一つ違う所は何か。イエス様によって罪が赦され、彼の心が変えられた。彼の生涯は、永遠の生命を持って天国へ行く事ができる。永遠の生命を持って神の御前に立つ事ができるという確信があったんです。その時に、「切るなー、切るなー」と叫んでいる友人。そうだ、この友人はこのまま切り落とせば永遠の滅亡だ。わたしは死んでも大丈夫だ。彼は生命がけでザイルをたぐり上げていった。そのザイルをたぐり上げられて助かった時、友人は何と言いましたか。とびついてですね、「ああ丹羽、お前は、切らなかった」。

そうです皆さん、ただの人間だったら、切ったかも知れません。しかし、切らなかった。生命をかけて、この友達のために力をふりしぼって、その吹雪の中、引き上げたのです。あなたの死は、何年も何年も、まだまだ先と思っていらっしゃる。あるいは、もう直ぐと思っていらっしゃいますか。あなたは死を迎える時、恐れなく迎える事ができるでしょうか。イエス・キリストを信じる者は、永遠の生命を持つ。それは罪が赦された人、イエス・キリストを信じた人のことです。その人には死を越えた輝かしい希望の世界が開かれて行くのです。この礼拝堂の中に一匹の熊蜂がとびこんで来てごらんなさい。皆ニコニコしてわたしの話を聞いて下さっていますが、「ブゥーン」ときたら、「あー来た」、「キャー」と悲鳴を上げることでしょうね。蜜蜂でもこわいんでしょう。わたしの説教どころじゃあないでしょう。そして勇敢なある人はですね。追っかけ回すかも知れませんが、自分の方に、いざ飛んで来たら、また、よけるかもしれません。しかし、わたしがその時、「皆さん、この熊蜂は心配いりませんよ。針をちゃんと抜いてありますから」と言ってごらんなさい。そうしたら羽音こそ、おそろしい音をブゥーンとさせますが、蝿と同じです。自分の頭の上に飛んで来たら、パッ、パッ、と払いのけるでしょう。針が抜かれているからです。そこにはもはや恐怖はないですよ。

針とは何でしょうか。「死のとげは罪である」、御言はそう書いてあります。わたしたちが死を恐れているがその死の刺は罪です。人間が本当に恐ろしいのは、死そのものではない。その死がやって来た時、逃れる事のできない罪の審判が、こわいのです。しかし、十字架の上で、イエス・キリスト様は、キッパリとあなたの罪を背負って下さいました。主は我等のために傷つけられ、我等の咎のために、イエス・キリスト様は十字架の上で打たれたのです。釘づけられたのです。あなたはこのイエス・キリスト様を信じて行く時に、「あなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ」何とすばらしい事ではありませんか。どこで、汚れた手をきよめる事ができますか。どこで、汚れた心を新しくする事ができますか。ただ、イエスの血、十字架のイエス・キリスト様だけです。明日では遅すぎます。まだ若い、まだ次の時がある、また次のチャンスがあると決して思ってはなりません。信じるのは明日では遅すぎますよ。

愛する皆さん、わたしには学問がある、わたしには若さがある、わたしには教養がある、わたしには財産がある、わたしには、これがある、あれがある、わたしはイエス様を信じなくても大丈夫だ…。本当に大丈夫ですか。また死ぬ間際にでもわたしは信じましょうか。決してそのような事を考えてはなりません。「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」 イエス様を信じるのは今です。

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」皆さん、このたびの聖会は、クリスチャンのために開かれました。洗礼を受けていらっしゃる方が、この中に、大勢いらっしゃると思います。しかし、バプテスマは受けていても、イエス様を信じてない方が、あるいはおられるかも知れません。これは恐ろしい事です。儀式によって人は救われるのではありません。聖書の研究によって、人が救われるのでもありません。聖書の研究は非常に大切です。しかし、聖書研究が救いにはなりません。救いは今日までの罪を悔い改めてイエス・キリスト様を信ずるのみです。イエス・キリスト様を我が救主、我が罪の潔め主、我がよりたのむべき神として受け入れる時に、人は救われるのです。

あなたは救いの確信をお持ちでしょうか。あなたはイエス様を信じてその生涯を変えていただきましたか。今日あなたは、イエス様を信じたらいかがでしょうか。イエス様を受け入れない理由が他にあるでしょうか。

あなたを愛し、あなたを潔め、あなたの生涯を明るく健康で豊かにして下さる救主イエス様を受け入れない理由は他にあるでしょうか。今お祈りいたしましょう。

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