〔11〕 わたしを強くして下さる方 ( 7.14/2006 )
さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
(ピリピ人への手紙4章10節―13節)

毎年、わたしどもは礼拝を共にし、礼拝をもって新年をスタートすることにしています。例年のように、皆さんも、礼拝堂に入る時、今年はどういう御言が礼拝堂の中に掲げられているだろうか、何の御言だろうかと、期待をもって御出席のことだと思います。今年の御言は、今、拝読していただきました、ピリピ4章の13節です。「わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」、これが一つの御言です。このことばをしたためたころの使徒パウロは、こういうような強気の、そして、わたしには何でもできるのだ、というように外側の条件が満たされている状態ではなかったのです。むしろ、彼は、捕われの身、キリストの福音のために、彼は牢獄につながれている身でした。しかし、彼の書いた、このピリピ人への手紙を見ます時に、いささかも不平とか、不満とか、悲しみとか、不安っていうものが出て来ないのです。お気付きかと思いますが、ピリピ人への手紙には、そういう言葉に代えて「喜び」という言葉が5回、そして、「喜ぶ」という動詞が7回ほど、出ているのであります。すなわち、両方を合わせるならば、12回ほど、このピリピ人への手紙の中には、喜びという言葉が繰り返し、繰り返し、出て来ているわけです。

彼が捕われの身であった、当時の牢獄というものは、今日の刑務所とは異なって、不衛生であり、その上苦しい刑罰が待っている所でありました。しかし、そういう中で、彼から、「喜びましょう」「喜びます」という言葉が繰り返し、繰り返し、溢れるように出て来ているのは、真に驚きに値します。ですから、ピリピ人への手紙を、ある人は、喜びの手紙だと名付けておりますが、まさにその通りだと思います。この4章の13節に「わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」とあります。環境は、全く喜ぶことのできないような環境、捕われの身で、何もできないと思われるような状況で、「わたしは、何事でもすることができる」と語るのです。この新しい年、わたしたちはこのピリピ人への手紙を学んで行くわけでありますが、その信仰がためされ、困難がありましても、ひるむことなくいつも溢れる喜びのゆえに、その困難を克服していった、あの偉大な使徒パウロの信仰のようになっていきたいのです。

この喜びだとか、わたしは何事でもすることができる、だとかいうこの発言は、人間の修養の結果だとか、教養を積んだその成果だとかいうものでは決してありません。これはただ、イエス・キリストとの関わりによって、イエス・キリストを信ずる信仰によって、そのように語ることができる。いや、語っただけではない、確かに彼はその言葉の通りに生活して来たのです。彼が書いた手紙の中の一句に、こういう言葉があります。「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない」(テモテ第2、2・9)自分のこの右の手も、自分の左の手にも、鎖がついている。首には首枷かせがある。足には足枷がある。わたしの肉体を、がんじがらめに鎖で縛ることができたとしても、福音そのものは、だれも縛ることができないのである。「されど、福音はつながれたるにあらず」(文語訳)彼の肉体は不自由な身になっておりましても、彼の中にあるところの、キリストの生命は、溢れていたのです。

このピリピ人への手紙の1章を見ますと、パウロは捕えられていたその牢獄の中で、福音を宣べ伝えたのでした。そして福音は、牢番をしている兵隊達に、また、彼らを通して福音は、ローマの皇帝の近親にまで、ジワジワと及んで行ったと、証ししているんです。ですから、わたしの身に起った事は、嬉しい事だ、わたしが捕われの身になっていることで、皆さんにいつも心配していただいているけれども、むしろ喜んで欲しい。彼はそう言っているのです。ピリピにおける最初の伝道の時には、よく御存じのように、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」(使16・31)と言って、あの獄守に福音が宣べ伝えられたのです。その時もそうでした。彼は鞭打ちの刑を受けました。そして足枷も付けられました。体中痛みました。熱は出ました。喉も渇きました。彼はそういうような肉体の極限状態、苦しみのもうギリギリの所、ぶっ倒れそうな状況にあって、彼は、その中で、思い切り主を讃美し、主に祈ることができたのです。それが使徒行伝16章のピリピ伝道についての記録です。これは、使徒パウロの個人の証しばかりでない。今日も福音の力は変りなく、わたしたち信ずる者を喜ばせ、もうできないと思われるような時にも、できるということを確信せしめ、進み行かせるものなんです。

そこで、もう少し今の聖句を見ていただきたいのですが、13節の「わたしを強くして下さる方によって、何事でもする事ができる」と書かれておりますが、むしろ、ギリシャ語の方では日本語と、丁度言葉の順序が逆でございまして、「何事も」というのが、最初に出て来ている言葉なのです。ギリシャ語の一つの特徴は、強調したい言葉を最初に持って来ます。ですから、パウロが言おうとしていることは、自分は捕われの身、自分は牢獄の中に入れられている身で、人間的に見るなら、何もできない。あちらの群れは、こういう問題で困っている。人間の気持ちとしては、「ああ、あそこに行って、あのように困っている問題を、わたしが解決してやりたい」というのが人情だと思うのです。だけど足の鎖は、それを許さず、手の鎖はそれを行わせないのです。あちらに病んでいる人がいる。その病める人の所へ出かけて行って、祈ってあげよう、悩んでいる人に、福音を聞かせてあげよう、しかし彼は思うようには行動できません。だが彼は、何でもできると言うのです。わたしは何でもできる、と気が狂ったように言うのです。できる環境にあってできないというのがわたしたちの状況です。何でもやろうと思えばやれる状況下にありながら、あれがどうだからできません、これがどうであるからできませんというのです。

ある若い伝道者が(わたしも若い伝道者ではありますが)、こう言いました。「わたしは開拓伝道をするのに、オルガンがないから困ります。説教台がないから困ります。だから開拓伝道はできません。」それを聞いた所の先輩たちは、もう苦笑しました。説教台がなければ、みかん箱でも、りんご箱でも、ひっくり返して、その上に白い布でも置いて説教すればいいし、オルガンがなければ手拍子があるじゃないか。すなわち、わたしたちは、あれがないから、これがないからできないと考える。一切が与えられていて、何でもすることができる状況であるのに、できない事ばかりを考えて、駄目だ、駄目だと言っているのです。しかしパウロは、できない環境の中で、できると発言する。

今年、わたしたちの行く手には、どういうものが待ち受けているか、わたしたちには知るよしもありません。しかし、一つはっきりしていることは、わたしたちも「何事もすることができる」ということです。もう駄目だと、まわりの人も自分自身も、そういう風に考えさせられる状況に落ち込んでおっても…。信仰は、キリスト様の御言は、できると語るのです。ですから、パウロは、「何でも」と強調しているんです。「何でもできる」、これは別だというものは彼にとって無いというのです。すばらしいことじゃないでしょうか。このことは別です、これは駄目です、と言っていたら、結局は全部ダメになってしまいます。しかし、「わたしにはできる」。この「できる」という言葉を、ある人は、こう訳しております。「わたしの力を越えるものは何もない」これは、全部わたしの手でなすことができる、という意味です。今日、わたしたちにとって確信したいことは、わたしの手を越えたものはない、わたしの手でできないというものはない、ということです。

昨年、聖文社から出版された、ロバート・シューラーの「あなたの教会は必ず成長する」という本がありますが、ロバート・シューラーが、このようなことを、その本の中で言っています。「教会の内外両面において、疑いもなく『成功』に対して最もはびこっている障害は、わたしが選ぶとすれば、『できないのだ』と考えることです」教会の内外両面において、教会のクリスチャンだけでなく、ノンクリスチャンにおいても、すべての成功、すべての前進に対して障害になっている第1のものは「それは無理だ。それは難しい、止めておいた方がいい」「それは危険です。そういうことは、わたしたちは触れないでおきましょう」。これだと言っているんです。神学的立場は改革派教会であります、この、ロバート・シューラーが、いつも信徒に語るところの一つは、「わたしたちは、神にあっては可能である」という信仰です。何かにパッとぶつかった時、あなたはどういう態度を取るでしょう? ああ、難しい、ああしまった、そして回れ右をする人間になるか、「いや成し得る」と信じる人間になるか、それが成功か不成功か、勝利か敗北かを決めてしまうキーポイントです。この世の中も不景気だ、難しいことでいっぱいです。多くの問題は天から降って来るのでもなければ、地から湧いて来るのでもありません。それなりの理由を持って来ているわけです。わたしたちクリスチャンが、本当にわたしたちにはできるという信仰を、先ずわたしたちの内に持つことですね。

そこでこの4章の13節の御言は、ちょうど順序は逆でありますが、わたしは何でもできるとパウロが断言しているそのすぐ後に、これはパウロの手紙の特徴でありますが、限定があるわけです。熱心なパウロ。そして熱烈な使徒の精神を持ち、強烈な意志を持った人物が、わたしはやるんだと、何か精神的な暗示のもとに、あるいは一つの燃える情熱でやって行くのか。いいえ、違います。パウロは「わたしは何事でもすることができる」と断言している言葉の前に「わたしを(愛し)強くして下さる方によって」とつけ加えているのです。「あの人は、やり手だからね。やりますよ、あの人は」「あの人は何といっても、力強いですから」「あの人の勉強、あの人の経験、あの人のやって来た今日までの業績を見るならば、当然でしょう」、そういう人が世の中にもいらっしゃるわけですが、ここで言おうとしているのは、「わたしを強くして下さる方によって、何事でもする事ができる」とパウロは断言しているのです。すばらしいですね。英国の聖書翻訳者(J・B・フィリップス)の翻訳を見ますと、「わたしの内にあって生きていて下さる方によって、わたしはすべてのことに備えができております」と言っているのです。彼は、「わたしの内にあって生きて下さるお方によって」と言っているのです。「わたしを強くして下さるお方によって」、ギリシャ語の直訳ではこういう意味でありますが、フィリップスは、「わたしの内にあって生きて下さるお方によって」、すなわち、内住のキリスト様によって、わたしはできるのだと言っているのです。

だから、ただ単なる暗示、社員教育でよくやる方法の一つに自己暗示法がある。「わたしはできる」と大声で叫ばせて暗示をかけ、自分自身にできるように思わせ、潜在能力を発揮させようとするものです。そのような自己暗示による「わたしはできる」とは全然違うのです。パウロが言うのはそうじゃないんですね。「わたしの内に生きて下さる生命なるキリスト様が、力を与えてできる者として下さる」と言うのです。これは嬉しいことじゃないですか。学問がある人、お金がある人、地位がある人、そういう人は皆できるんでしょうけれども、「わたしは無いですもん」、「わたしは欠けておりますもの」、「わたしは恵まれていませんもの」…と言って、不可能を数えあげる人が多いのです。パウロが「わたしはできる」と言っている。その言葉の秘訣は主がわたしを間断無く、強め続けて下さっているという意味ですよ。かつて一度だけエネルギーの供給をして、「さあ、出て行きなさい。やって来なさい。健闘を祈るよ、サヨナラ」と言うようなお方じゃなくて、日ごと夜ごと、瞬間、瞬間、わたしたちに生命と力をキリスト様は与えて下さるのです。

ある有名な聖書注解者は、「わたしの中に力を注ぎ込んで下さる」と言ってますね。「わたしの内に力を注ぎ込んで下さるお方によって、何事でもすることができる」、彼はこの箇所をそういうように訳しておりますが、愛の足りない人、そうです、その人に愛を注ぎ込んで下さる。知恵の足りない者があるか、その知恵の足りない者には、いつも生命なるキリスト様が、内にあって恵みの主となって下さる。だからできるってパウロは言っているんです。だったら、わたしたちも同じように、言えるんじゃないでしょうか。パウロの偉大さは、彼が特別な人間だったというだけでなく、彼の内にあったその生命、彼の内に生きたキリスト様によって「できるという証人」である点にある。イエス様が言われました。「だれでもこの山に、動き出して、海の中に入れと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」(マルコ11・23)何とすばらしい言葉でしょうか。あまりにもわたしたちは「できない、できない」「むずかしい、困難だ」と言いすぎる。そうですから、この年、わたしたちの教会に与えられている御言、「わたしはできる」という信仰に立ちましょう。「わたしはできる」という信仰。シューラー博士は、いつもそのことを強調しております。“possibility thinking”できるという信仰です。考えやただ精神的な問題じゃない。わたしの内に生きて下さるキリスト様によってできる信仰を是非もちましょう。

しかしあの怪力サムソンも、彼は何でもできた一番強い人間でしたが、彼も力の抜けた時がありました。髪の毛を切られた時に、彼の力が抜けて行きました。彼はナジル人として、聖別された人間として、そのシンボルとしての髪を伸ばしていたわけです。しかし彼の聖別のしるしが取り去られた時、何の力もなくなってしまった。わたしたちは、「わたしを強くして下さる方によってできる」と反対に、聖別が冒された時、すなわち聖なる献身からそれて行く時に、サムソンと同じように何をする力もなくなってしまう。敵の笑い者となって行くわけです。目をつぶされて、ひきうすをひく労働者になってしまうわけです。神から油注がれ、神からイスラエルを導くべき士師が哀れな奴隷に変ってしまったのです。愛する皆さん、あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ15・7)とイエス様が言われました。

パウロも同じです。どのような環境の中にあっても、キリスト様との関わりが、キリスト様との聖別された生命の交わりが保たれている限りにおいて、足枷も首枷もどのようなものも、彼を、不可能だという不信仰の中に閉じ込めることはできませんでした。彼は生命なるキリストによって溢れる力を持って、「わたしにはできる」と言ってるんです。ですから、日々わたしたちもキリスト様との関わりが、すばらしい状態であるかどうか確認しましょう。

キリスト様がわたしの内にあって生きていて下さるという信仰をわたしたちが確認して持つことができたならば、その次に「わたしは何事でもすることができる」と大きい声で、わたしたちは信仰の告白をしようじゃないですか。この1年、信じて行きたいと思うんです。苦しみや困難は世の常ですから、当り前のことでしょう。ですから次から次にやって来るかもしれません。しかし大丈夫。「わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」。どうか、戦うクリスチャンになりましょう! 困難が来たら逃げ出す者にならないで。

現代語のわかりやすい英語の聖書を見ますと、「どのような状況、コンディションに対しても、わたしはそれに直面することができる力を持っておる」とこう言っております。この1年間365日、何が起きて来るかわかりませんけれど、「このことはわたしにはできません、やっぱり、ちょっとむずかしい…。用意ができておりません」という生き方じゃなくて、フィリップスは訳しました、「わたしの内に生きて下さるキリストによってやってみる」と。

聖霊こそが、万事の解決者であり、勝利の源泉です。お祈りをしたいと思います。

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