〔12〕 回復と激励 ( 7.14/2006 )
すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」
(ゼカリヤ書4章6節)

この御言は、非常に有名な御言です。旧約聖書のゼカリヤ4・6と言えば「あの御言か」と思い起こすほど内容のすばらしいことばです。わたしたちの教団、日本イエス・キリスト教団の生みの親だと言われている日本伝道隊という団体があります。この団体は英国に生まれ、本部が英国にあるわけですが、日本の人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えよう、そのためにわたしたちは祈りましょうと、教会を越え、教派を越え、教団を越えて日本の伝道、日本の救いのために英国のクリスチャンたちが集まって祈り、そして宣教師を送り出し、また神学校を支えようという団体です。

その創立者は、皆さん御存じのB・F・バックストンという方です。バックストン先生のすばらしさはよく御存じかとは思いますが、この先生が、日本の伝道のために祈られ、英国においてこの伝道隊を創立なさった。その時に、与えられた中心聖句は、他ならぬこのゼカリヤ4・6の御言なのです。「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」という御言は、日本の伝道のために創立された、日本伝道隊の信仰の中心となっているものです。

いよいよ来週の金、土、日と平和台球場でビリー・グラハム国際大会が開催されます。このビリー・グラハム伝道団の中心の御言は何ですか、とおたずねしたら、やはり同じでこのゼカリヤ4・6の御言なのです。この団体の中心は、ビリー・グラハム博士でもない、すばらしいアーチストでもない、13年前、東京に来られた、クリフ・リチャードのような有名な歌手でもない。ゼカリヤ4・6の聖書の示す如く聖霊様です。

また、いよいよ、明後日の火曜日の夜から始まる、第67回、九州聖会の聖句は何ですかと聞かれた時に、皆さん、御存じですか。それはこのゼカリヤ4・6です。ご1緒に言ってみましょう。「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」これは今年の聖会のために、わたしたち委員会が特別講師としておいで下さる本田弘慈先生に、「本田先生、今年は特別講師のおひとりですが、この聖会のための中心聖句をお送り下さい」とお願いしたところ、他ならぬこの御言が送られて来たのです。ですから、英国において、日本の救いのために祈り、宣教師を送り、神学校をつくり、宣教師自身がすばらしい働きをしていらっしゃる日本伝道隊の中心聖句がこの御言であり、ビリー・グラハム伝道団の中心聖句もこの御言であり、また九州聖会もこの御言です。

さて、この御言の意味はどういう意味なのでしょうか。案外口ではよく言っているのですが、その意味を理解していない場合が少なくありません。このゼカリヤ書というのは、ゼカリヤという方がお書きになった、預言の書物です。どのような時代背景のもとに、このゼカリヤ書が書かれたかと申しますと、紀元前6世紀に書かれたものです。ずいぶん、古い書物ですね。しかし、古いということは必ずしもかびくさくて、現代に通用しないということではありません。

このすばらしい神様の御言は、2600年もの昔の御言ですが、今日のわたしたちに非常に大切なことを教えているのです。ゼカリヤ書は、紀元前6世紀と申しましたが、もう旧約の歴史を学ばれた方はおわかりかと思いますが、旧約のイスラエル民族は、サウルという王が立てられ、次にはダビデという王が立てられ、その次にソロモンが王として立てられ、その子レハベアムから、イスラエルは2分されてしまったのです。2つに分かれるということは悲しいことですね。よくない事です。ドイツが東西に分かれ、韓国と北朝鮮が同じ民族であるのにもかかわらず、2つに分かれているのは民族にとって悲劇です。

イスラエルの歴史においても、ソロモン王の後、北と南の2つに分かれたのです。すなわち、北は北朝イスラエル王国、南は南朝ユダ王国になりました。そして北朝は南朝に先立って、アッスリヤ帝国によって滅ぼされてしまいました。そして、南朝は、その後、アッスリヤ帝国に続いて興ったバビロニヤ帝国によって滅ぼされるのです。それが紀元前587年7月のことでした。ユダ王国は、バビロニヤ帝国の一つの方針といたしまして、ユダヤの国の指導者たちを皆、バビロンに捕虜として連れて行かれました。その代りにバビロンから人を移して来ました。残された方もいたわけですが、多くの指導者たちがバビロンに移された時、彼等は悲しみ、故郷を慕い、今までの自分の不信仰、不従順を悔い改めたのです。

そしてバビロンへ移された時代の出来事として書かれたのが、ダニエル書であり、エゼキエル書であります。また、詩篇の中にもこういう歌があります。バビロンの人がイスラエルの人達にこう言ったというのです。「我等にひとつ歌をうたえ」と言った、その時彼等は、「わたしは異国の地で、そしてあだし神を拝む人々のためにどうして聖なる神様の歌をうたうことができようか」と言った。また「われらのふるさと南朝ユダ王国の都エルサレムを慕って、わたしは涙を流して泣いた」という歌が詩篇の中に出てくるのです。その時代のことが歌われているわけですね。

この南朝ユダ王国の人々がバビロンに移された時に、預言者ダニエルもその中に居たわけです。彼はバビロンに移された時でも、心はいつも故郷を慕っていました。神様を礼拝しておりました。彼はいつもイスラエルの方向の窓を開けて、1日に3度は祈りをささげていたとダニエル書には記されているのです。バビロニヤ帝国によって、ユダ王国は滅ぼされましたが、このバビロニヤ帝国の次に興ったのがペルシャ帝国で、ペルシャの王が征服して世界の王座に着いた時に、今までバビロンに捕えられていたユダの人々を解放したのです。

「さあ、あなた達は帰りなさい。帰ってあなた達の国を復興しなさい」。そこでユダの人々は解放されて、第1陣、第2陣、そして第3陣と次から次へとなつかしい故郷に帰り、今迄荒廃していましたところのユダ王国、すなわち、イスラエルを復興することになりました。城壁はくずれていましたので造り直しました。そして神殿は焼かれてしまっていたので、神殿を再建しようとしました。こういうような歴史的背景の時に語られたのが、このゼカリヤ書なのです。

ゼカリヤ書の前にハガイ書という書があります。預言者ハガイは同じ時代の預言者です。ハガイもやはりバビロン捕囚から帰って来た人です。ペルシャ王クロスによって解放されて帰って来たイスラエルの人々が、神殿建設をしかけたわけです。夢に描き、理想に燃え、もう一度イスラエルの国を復興し、栄光を手中に収めようということで、彼等は喜び勇んで帰って来ました。しかし、現実は、そう簡単にはいかなかったのです。エルサレムの神殿の建設をしかけました。エルサレムの城壁を築きかけました。しかし外敵がいました。この建設をしばしば妨げ、また中断させました。また外敵ばかりでなくて、一緒に帰った人々の中にも「こんなきびしい労働に耐えられない。またわたしたちの生活が成り立たないのに、神殿を建設したり、城壁を築いたりするという任に耐えられない」と言う人もあったのです。そこで、彼等は、神殿の基礎だけ築いて、中断してしまったのです。この時におこされたのがハガイであり、ゼカリヤという預言者です。そして彼等は中断していたイスラエルの国の復興建設を「やりなさい、励みなさい」と叫んだのです。

さて、ハガイ書をごらん下さい。ハガイ1章です。「ダリヨス王の2年6月、その月の1日に、主の言葉が預言者ハガイによって、シャルテルの子、ユダの総督ゼルバベル、およびヨザダクの子、大祭司ヨシュアに臨んだ、『万軍の主はこう言われる、この民は、主の家を再び建てる時は、まだ来ないと言っている』。そこで、主の言葉はまた預言者ハガイに臨んだ、『主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃金を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。』」(ハガイ1・1―8)

今、読んでおわかりのように、イスラエルの人々は神殿建設工事を途中でやめてしまったのです。バビロンから解放されて、喜び勇んで帰って来たのですが、まわりの敵、自らの貧しさ、弱さ、不信仰、そういうようなものが重なり重なって、とうとう神殿の土台だけは造ることができましたけれど、建設は中断してしまったのです。1年経ち、2年経ち、5年、10年、15年、18年というように中断されました時、すなわち、基盤は作られたけれども、それこそペンペン草が生え、神殿は、なおざりにされたままであったのです。自分のためには家を建てているけれども、神の家は荒れたままでありました。そういう時代背景でありました。

生活が成り立ちません、というのがこの時代の人達の考えでした。自分最優先、自分の生活優先、自己第一というのがこの時代の人々の姿でした。この時代に預言者ハガイ、そしてゼカリヤが立って預言をしたのです。「わたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。」自分の事だけでもう精1杯、神殿のこともわかります、それも大切です。しかし、それではわたしの生活が成り立ちません、というのがこの時代の人達の考えでした。

さて、ハガイ書にも記され、そしてゼカリヤ書にも記されていることでありますが、その当時の指導者、総督といわれる方は、誰だったかと申しますと、ゼルバベルという方でした。その時代の祭司は、ヨシュアでした。預言者は誰であったか、ハガイでありゼカリヤでした。このような時代背景のただ中で、神様がイスラエルの人々をせっかく解放し、バビロンの手から解放したにもかかわらず彼等は挫折してしまったのです。尊い使命、任務、あるいは召しというものを持ちながらも、その途中で放棄し挫折してしまっている人々に対して、神様がもう一度、回復と激励を与えているのが、このゼカリヤ書、ハガイ書なのです。

そこで、ゼカリヤ4・6の御言をごらんいただきたいと思うのです。ここに書いているゼルバベルという指導者にゼカリヤは、神様がお告げになる言葉を聞きなさいという、いうならば激励のことばを発しているわけです。これは、なにも人を叱り飛ばすことではなくて挫折しているもの、投げやりになっているもの、あるいは、目の前にそびえる大きな困難の山の前に失望してすわり込んでいる人々に、与えられる慰めと、大きな希望のメッセージなのです。決して「あなたがたはつまらない、つまらない」と言って、切り捨てる裁きの言葉ではなく、挫折し、失望し、悲しみ、中途半端で投げやりになり、不信仰になってしまっている人々に対する慰めと希望のメッセージです。それは、内容を見ていただくとわかりますが、第1に「これは権勢によらず」とあります。

この権勢によらずというのは、どういう意味かと申しますと、ある英語の翻訳によりますと、それは、ミリタリーマイト(Military Might)と書かれてあります。ミリタリーというのは、軍隊のことです。この偉大な使命を全うし、困難なところを乗り切って進んでいく力というものは決して軍隊の力、兵隊の力ではない、馬や戦車の力でなし遂げられるのではないというのです。想像ですが、ゼルバベルの中にはやはり、幾度かは軍隊の力のすばらしさをうらやむ思いが胸の内をかすめたのではなかろうかと思うのです。なぜならば、人間の歴史を見ていきます時に、いつも兵力、軍事力、その武器の力が非常に大きな力を持っているのです。すなわち、アッスリヤがイスラエルを攻めて来た時に、彼等は武力によって蹂躙じゅうりんしたのです。また、バビロンが南朝ユダを捕えて連れていったのは、やはり軍隊の力であったのです。そしてバビロニヤ帝国を打ち滅ぼした、ペルシャ帝国の力も同じくクロスの軍事力にあったわけです。ゼルバベルが同族イスラエルの民を連れて復興のために、なつかしい故国に帰って来た時に、彼等は頑張りました。よいスタートをしました。挫折したその時に「ああ、我等にも外敵に対して、あの強力な軍事力があったらなあ」と思ったに違いないのです。「わたしにもあのクロス王のような武器があれば、兵力があればいいがなあ」と幾度かそのような異邦の歴史の中に、すなわち、世界の歴史の中に強力な軍事力を体験している彼は、「欲しいのは軍事力だ」としばしば思ったに相違ありません。

しかも、軍事力がないから、「わたしは、神様が建てよ、と言われたエルサレムの神殿再興は、不可能だ」と失望しました。また彼等と一緒に働いていたイスラエルの住民も、皆同じ思いに捉えられていたのではないでしょうか。このゼカリヤ書を見る時に、強力な軍隊、戦車というものに対する羨望は、大変なものであったろうと思います。しかし、神様はゼカリヤに教えられました。「いいえ、そうじゃないよ」と。人間が事を起こし、与えられた使命をやり遂げていくのは、外側の軍事力とか、お金の力とか、あるいは大勢の人の力でもないのです。「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」(詩20・7)

第2番目に出てくる「能力」というのは、個人的な力を意味しているのです。わたしたち人間には、それぞれやり遂げなければならない「使命」というものがあります。わたしにも使命があります。先日ある病院に行きましたが、その病院のクリスチャンドクターがわたしにおっしゃるのに、「先生にはコーリングがあるのですから」とさかんにコーリング(Calling)コーリングとおっしゃるのです。一般には「職業」と訳しておりますけれども「召し」のことです。神様がコール(Call)して下さっているのです。わたしは牧師という神のコーリング、すなわち「召し」に生きているわけです。神の召命です。皆、生まれて来た人間には、どなたにも神様のコーリングが、すなわち、召しがあるわけです。それを知らないで生きていくことは非常に残念なことです。自分はこの事のために神様が召して下さったという尊い任務、使命というものがあるわけです。同じ生きて行くにも、ただ何となく、死ぬわけにいかないので、生きているというのではない。仕事にもいろいろあります。しかし、わたしはこの事のために召されたのだという生き方があります。

パウロ先生は、この点がはっきりしていました。「わたしは人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらされた父なる神とによって」わたしはコーリングを受けた、召命を受けたと、確信して生きていたのですね。ここでは、能力が問題ではない、神の力だというのです。すなわち、軍事力ではない、権勢ではない。個人的な能力、ある人は頭がいい、才能がある、有能だ、この人には金がある、というようなものがたくさんある時に、はじめて神様のコールがあって、使命や、任務や、仕事にあずかられるのかというとそうではない。一般的には軍事力とか、権勢とか、個人の能力とか、というようなものでできるかの如く、思い易いのですが、神様から個人個人に与えられる使命や、任務や、仕事というものは、何ものにもまさって「わたしの霊によって」できるのであると教えているのです。

ゼカリヤは、その事を預言者として、ゼルバベルに言い聞かせたのです。そこでお開きいただきましょう。コリント第1の手紙、15章です。9節から拝読いたします。「実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いて来た。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」ここに「わたしと共にあった神の恵みである」とあります。パウロ先生は、わたしは誰よりも働いてきた、わたしは誰よりも業績をあげてきた。しかし、自慢しなかったのです、それは神の恵みです、と彼は言ったのです。「神の恵み」があればこそ、わたしはこの尊い神の任務を果たすことができましたと言ったのです。ゼルバベルよ、あなたもそうなのだ。ゼルバベルよ、あなたも軍事力に頼るのではない。また個人的なあなたの才能や賜物や、栄誉や力に頼るのではない。あなたを召して下さった、神様の全能こそ、あなたの頼りとすべきところです。すなわち、「わたしの全能の霊」によって生きるのが、あなたの生き方だよ、と教えていらっしゃるのですね。

今日、わたしたちもともすれば「あれがあるといいのになあ、これがあればいいのになあ。これがないから、これがないばっかりにわたしは不幸だ、わたしは挫折しているのだ」と言います。その心こそが、一番大きな問題なのです。ゼカリヤの預言の中で、わたしたちに教えられることは、ゼルバベルにとっても一番大きな問題は、敵でもなければ、人々の不従順でもない、指導者としてのゼルバベルの心の中に、神様以外のなにものかに期待して、自分にそれが無いからできないのだという不信仰が問題であったのです。

わたしたちにとって、大事なのはその事です。わたしたちの心がまず神様を忘れ、神の全能を無視しているところに、わたしたちの大きな挫折の原因があるんですね。これがわたしたちの事実ですね。よく繰り返すところです。あまりにも他の人の能力や権力に幻惑されてしまって、「わたしには、こんなものがない、あんなものがない」と劣等感にとらわれてしまいます。これはいけないことです。東京の保谷市にある教会、保谷中町教会の飯塚先生が、昔、荻窪栄光教会から出られ、練馬というところで開拓伝道されたのです。先日、わたしが先生の所へお伺いした時に、昔、開拓伝道した所を見せて下さいました。「先生、これがわたしたちが最初開拓伝道を始めた所なんですよ」と言ってそこを見せて下さいました。まあ、家ではありますけれども、ほんとうに小さい、こちらに4畳半位でしょうか、そして玄関を入ったばかりの所に2畳位の部屋があって、向い側が台所というような小さな教会なのです。ですから、もう全部開放してもしれたものです。教会員は会堂がほしい。そのためには土地が必要です。「土地が必要です」とお祈りしかけたというのです。そうすると道をはさんで向い側には、広い畑があるんですよ。東京と言っても、その辺はまだまだ畑がたくさんあったわけです。

開拓伝道をし始めた時に、その近くの地主さんの娘さんが教会にやって来られた。教会員達は、「ああよかった、大地主の娘さんが来るようになった」ということで喜んでいました。なおも「神様、この近くに会堂を建てたいですから、土地を与えて下さい」と祈っていると、彼女は、自分の家の土地がねらわれていると思って「お父さん、教会の人がね、皆、わたしの家の土地をねらってお祈りしていますよ」と言ったというのです。わたしはその気持がわからないわけではないですね。神様は「汝らが足の裏にて踏む所は我ことごとく汝らに与う」とヨシュア記で言っておられますから、一生懸命お祈りして、お願いしたというのです。結果としては、その娘さんが「ねらわれている、ねらわれている」と言って心配していた土地ではなかったのですが、今は、祈りと信仰によって、保谷の方に立派な教会ができております。

わたしも、先週の日曜日でしたが、すぐ近くにある大地主さんの所に行きました。先々週の金曜日でしたが、福岡市西区の各校区婦人会の代表の方と、老人会の方達が、花畑老人ホームにいらっしゃったのです。ボランティア奉仕です。その時、ホームの職員がいろいろと説明したあと、「理事長、何かこの方達にお話をお願いします」ということで現在老人ホームの状況とか、これからの見通しなどを、お話しいたしました。(当時老人ホームのお世話していましたので)皆さんに笑いながら聞いていただいたわけですが、その後「これをどうぞ。今日はお土産を持ってきました」と言って、大きな2つの包みをあけて下さいました。「これでシーツでも作って、ご利用下さい」と。それはミシン糸と反物でした。そこには婦人会長さん、老人連合会長さんもいらっしゃったので「ああ、そうですか」と言って名刺を交換しました。その名刺をみると「東油山…」それはかねがねお会いしたいと思っていた人の名刺だったわけです。「ああ、そうですか、わたしはお宅の近くの油山シャローム礼拝堂の牧師です。よろしく」と言って金曜日にお会いした。そして先週の日曜日午後、「この前は、ボランティアで老人ホームに来ていただき、ありがとうございました」と言いますと、その方は「ああ、わざわざこの前のことをお礼に来て下さったのですか」「はいそのこともありますが、今日は、もっと大事なことでお伺いいたしました」「そうですか、どういうことでしょうか、まあ、どうぞお上がり下さい」と言われるままに、上がらせていただいて、「実は、かくかくしかじか…」と後の詳しい事は省略させていただきますが、「実はわたしたちの教会は、ひとつの計画がありまして、4階建ての建物に増改築しようと思っています。しかし、それもいいのですが、もっと広い土地を求めて、それこそ駐車場もある、グランドもある、体育館もある、それから礼拝堂もある、そのような総合的な構想の教会を造ろうとしております。今から5年程前に、早良区の内野に、わたしたちは2653坪の山を買いましたけれども、あれでもちょっと狭すぎる感じがいたします。ですから、今、この近くに、そのような場所を求めているのですが、いかがでしょうか」「そうですか、どれ位の土地ですか」と言われたので、「まあー、1万坪位ほしいのですが」「そうですね、油山にそんな大きな土地があるでしょうか」。その方は今、浄水場の上から市民の森まで全部の持主なのです。「まあ、最初は3000坪位でもいいのですが」などと色々の話をしていますと、その方は感心して下さいました。普通であれば儲かるか、損するかということばかり地主さんは考えますが、その方はそうじゃなかった。「それはいい考えですね。それじゃあ、考えときましょう」ということでした。今度、もう1度お祈りしてお伺いしなくてはならないのです。

神様の働きだからこそ言いたいのですが、わたしたちは、自分の側を見ると本当に小さい、小さい、取るに足りない者です。「誰か億万長者でも来ないかなあ、救われないかなあ」「先生1万坪の土地が必要なのですか。それこそ○○○○さんみたいに30億円をぽーんと出しましょうという人が来れば、1万坪位はすぐですよ」と思いやすい。人間は愚かな事を思うのです。そうじゃない、そうじゃないと言うのです。この聖書によると、そのようなものは権勢です。そういう権勢でもない、能力でもない、信仰だというのです。すなわち、神様を信じていくところには必ず、みわざは現わされてくるのです。これが聖書が語っていることです。この世の能力、この世の権力、この世の全てをもってやっていくのは、この世の信仰のない世界です。しかし、このゼルバベルに対する、ゼカリヤを通しての神の激励のメッセージは世的なものではなくて信仰であり、信仰をもって始めるならば、神様は、信仰に応答してみわざをやって下さる。わたしは今までを振り返ってみます時に、まさに、そうであったなあと思います。

しかし、わたしが今日、申しあげたいことは、わたしたちは、いつも外側の足りなさを嘆き、あるいはそのことのために、失望し、落胆し、挫折してしまうのです。だけど、わたしたちにとって最も必要なことは何か。このゼルバベルに神様がゼカリヤという預言者を通して与えたあのメッセージが必要なのです。すなわち、権勢ではない、また能力でもない、信仰だというのです。皆さんにしばしばお話して来ました、昨年度ノーベル平和賞をもらったマザー・テレサさん。インドのカルカッタですばらしい働きをしていらっしゃる方です。あの方は今、70才だと言われておりますが、あの方が今から32年前、単身、かよわいという表現が適当かどうかは知りませんが、女性の身で、たった1人の婦人が、カルカッタへ入って行ったのです。32年後の今日、32の重病患者収容施設、67のライ病患者病院、いわゆるハンセン氏病院、28の孤児院をつくっているというのです。この人は、アメリカの大富豪のバックアップのもとに、インドのカルカッタに乗り込んで来たのではなかったのです。

言うならば、かよわき女性に何ができようかと思われたではありましょうが、貧しい貧しい社会の中で、「最も貧しい人々のためにわたしは生きよう」と決意したのです。純粋に祈りをもって、1日を始め、感謝をもって1日を終えるという信仰と愛の生活を始めた時に、32年を経た今日、世界中に人々が感動し、彼女の生き方を助けようというような形で、すばらしい施設ができたのです。問題は、権勢でなく、また能力でもない、信仰だというのです。あるからできるのではなくして、我等の内側が聖霊なる神の知恵、力、すなわち、神第一にした生き方、そこに焦点を合わせる時に、わたしたちはすばらしい働きを進め、それを完成させることができるのです。ですから皆さんのお仕事でも、挫折してはいけないのです。投げやりになってはいけないのです。神様からみんなそれぞれ与えられた奉仕の世界、召しの世界があるのです。あなたでなくてはできない、クリスチャンになったあなたに与えられている務があるのです。けれども、「わたしには、こういう事情があるのでできません、ああいう事情があるのでむずかしいです」。これではゼルバベルやイスラエルの人々が、基礎だけ造って挫折していた状況と同じです。

さてもう一度、ゼカリヤ書4・6そして4・7もごらんいただきましょう。この聖書による、「わたしの霊による」、すなわち、神様の命と力が、ゼルバベルの中に入り込んでくる時、急に彼が筋肉隆々たる体になってくるというわけではありませんが、彼の中に信仰が、神の命、神の御霊が入り込んでくる時に、聖霊に満たされた時に、新しい展開がそこに始まるというのです。なぜかといいますと、ゼルバベルの前に、山は平地となって行く。文語訳聖書では、このように書いてあります。「ゼルバベルの前にあたれる大山よ、汝は何者ぞ、汝は平地とならん」「大いなる山よ、おまえは何者か」。確かにゼルバベルの前に、見てみると山はある、困難はある、確かに軍事力もなければ、能力もない。資源もなければ、何もない。ないないづくしではあるけれど、それにもまさって神の力がある。そこにゼルバベルの前を阻はばんでいる、近づくことさえできないようにそびえている山も、平地となって行くのです。このような経験をしたことがありますか。問題は、わたしたちの側ですよ。子供が問題、親が問題、兄弟が問題、会社が問題、近所が問題、何が問題、問題を外側にばかり数え上げるのが、わたしたちのくせですが、そうではなく、わたしたちの内に聖霊が満ちて下さる時、「ゼルバベルの前にあたれる大山よ、汝は平地」と変って行くのです。平地となるのです。そして、どうですか。「彼は『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろう」とあります。その大山と見える所、山から、困難から、そして、わたしたちの進むことを妨げているというようなその出来事、まさにその中からかしら石を引き出して来る。「恵みあれ、恵みあれ」と言いながら…。

これは勝利以上の勝利ではないですか。困難で、もう駄目だ、駄目だといっているのが、いや、困難そのものの中から、かしら石を引き出して来る。かしら石をもって建設―(石造りの家)―は完成する。この完成すべきものを「かしら石」というのです。この「かしら石」がなければ、いつが来ても未完成のままなのです。ですから、アーチ型建造物がありますね、中央にこの石が入ると全体がもつのです。「かしら石」とはこれなのです。そびえている困難の山の中から完成すべき大事な石を切り出してくる。これが信仰の世界です。神様のなさる業の世界です。

九州聖会は明後日の夜から始まります。本年はこの御言を通してもメッセージがあると思いますが、普通、この御言そのものから別のお話をなさることが多いのですが、今日は、ゼカリヤ書の歴史的な背景を通して、わたしたち現代に生きるお互いは、神の力に目をとめ、外側ではない、この神様が内に居て下さることを信じるのです。その時こそ困難の山から祝福を、『恵みあれ、これに恵みあれ』と言って、「かしら石」を切り出すことができるのです。これは勝利の世界ではないでしょうか。とかくわたしたちは、もっていない事、足りないこと、困ったことを持ち出して、自分がしないことを正当化いたします。自分の挫折、自分の手を出さないことを正当化しようといたします。いいえ、いけません。わたしたちは力づけられましょう、聖霊によって。

「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」

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