〔13〕 拡大されたビジョン ( 7.14/2006 )
「子を産まなかったうまずめよ、歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ、夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」と主は言われる。あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。あなたは右に左にひろがり、あなたの子孫はもろもろの国を獲、荒れすたれた町々をも住民で満たすからだ。
(イザヤ書54章1節―3節)

もう一度、御言を見ていただきます。イザヤ書54章の2節。「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」この御言は、キリスト教会の歴史において、大変用いられた言葉であります。あなたの天幕の場所を広くしなさい。あなたの住いの幕を張り広げなさい。こういうような積極的な命の御言は、信ずる者達に、いつも勝利を与え、そして、困難にいつも立ち向かう力を注いで来たのであります。

この54章の2節が、非常に有名になった理由の一つは、インドの宣教師をしました、ウィリアム・カーレイが、この御言を引用したからです。彼は近代宣教の祖となられたのです。彼は労働者であり、靴屋さんでありましたが、靴を縫い、靴の裏をたたく小さい彼の仕事場に、世界の地図を貼り出したのです。そして、小さい狭い働き場で、毎日毎日働いておりましたが、壁に貼り出された世界地図を見ながら、「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」の御言によって彼の心は、彼のビジョンは、拡大されていったのです。

人間の心というのは、だんだんだんだん小さくなって行く。小さい時に、お前は大きくなったら何になるのかと聞いたら、小さい時は、わたしはこんな立派な人になりたい、言うならば、驚くばかりの言葉を語るのです。いやわたしは総理大臣になるんだ。わたしたちの少年時代だったら大将になる(大将がそんなに沢山なれてたまるものかと思うのですが)あの頃、子供に聞けば、「僕、大将になりたい」。しかし、だんだん成長してくるに及んで、みんな望みは小さく小さく、あまりにも現実的に、あまりにも小さくなってしまう。これが現実です。

そういうような人間であるわたしたちお互いに対して、神様は言われました。「あなたの天幕の場所を広くしなさい。あなたのすまいの幕を張り広げなさい。あなたの綱を惜しむことなく長くのばしなさい。そしてあなたの杭を強固にしなさい」。とかく現実の厳しさのために、わたしたちはですね、だんだん心も、信仰も小さくなるのですね。わたしたちの仕事も、わたしたちの家庭も(何のために生れてきたのかと聞かれたならば)小さい家を建てて、小家族が細々と生活する、それだけのために生きてきたかと思うようなビジョンで生涯が終わってしまう。これではあまりにもかわいそうじゃないですか。あまりにもこれでは悲しいじゃありませんか。わたしたちがこの世に生を受けて来たのは、わたしたちが小さい小さい存在で終わるためではないのです。小さい存在で終わってしまう者として神様はわたしたちを選んだのではない。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」というのは、ただ小さい、本当に小さく自分達のためだけの生涯で終止符を打つのでなく、わたしたちの人生が終わりに至れば、すなわち、「夕暮れになっても光があるからである」というような生き方、陽の真っ盛りに至るが如き人生を送るように「あなたの初めは小さくあっても、あなたの終わりは非常に大きくなるであろう」というような生き方こそ、神の御旨なのです。

年頭の今朝、この54章から、神様の声を聞きましょう。昨年より今年が小さくなってはいけないんです。10年前よりわたしたちは小さくなってはいけないんです。そういうような意味において、神はわたしたちを偉大ならしめようとしているのです。あまりにももったいないことでありますけれども、一人の人が、イエス様によって選ばれたということは、わたしたち人間を、ただの人間を、その他大勢の部類に入れようとするのではなく、あなたを偉大な神の僕にしようとしておられます。ですから、「あなたの天幕の場所を広くしなさい。あなたのすまいの幕を張り広げなさい。あなたの綱を長くのばしなさい。あなたの杭を強固にしなさい」。どうぞ、そういうような意味において、わたしたちお互いが、昨年どころじゃない。今年はさらに大きく成長すべきです。2年前はすばらしかったというだけではない、神様がわたしたちを偉大ならしめようとしておられる。偉大な事をやらせようとしておられる。神様はあなたを期待していらっしゃる。いや、神様はあなたをして、本当にこの時代に光り輝く存在とならせようとしておられる。そこで、この54章の背景というものを見ていただきたいと思うのですが、当然ながらこの54章というのは、53章に続くわけです。決して54章は53章の前には存在しない、当り前です。

このすばらしい祝福は、53章のすばらしい預言から始まっているのです。ご存じのように、イザヤ書の53章は、受難のキリストです。ご覧いただきましょう。53章の3節をみます。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」今読んだ所は、イエス様についての預言です。預言者イザヤは、600年後に救い主イエス様がお生れになる事、そして救い主とはどんなお方であるかを、ここに預言しているのです。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」

わたしとあなたの罪や、汚れ、不信仰、不従順、すなわち、人間の最も汚れ果てた1切を、イエス様は、受難の僕として、口を開かないで、背負って下さった。これによって54章が続くのです。すなわち54章は、回復の箇所なのです。恵みの世界なんです。すなわち53章のイエス・キリスト様の受難の苦しみを通して、54章の祝福が始まるというのです。イザヤ書を見ますと、預言で満ち満ちているわけでありますが、イザヤが、どういう預言者として用いられたか、それはやがて来るべきイエス様の祝福の時代、恵みの時代を預言したと同時に、現実の、自分たち選民ユダヤの国のためにも、預言をしているわけです。ユダヤは、紀元前587年、バビロン帝国によって滅ぼされました。偶像を礼拝し、正義は地に堕ち、強い者は弱き者を搾取さくしゅし、人々は互いに汚れた生活をしていた。そこに、異教徒バビロンによって滅びがやって来たのです。

預言者イザヤはまた、この選びの民、神の民が滅んだ状態、異邦人によって滅ぼされているという事は、苦痛であり、悩みであり、また大きい悲しみでした。ですから、いつの日か彼らを支配している所の、この異邦人からの解放というのが、また、彼の祈りであり、切なる叫びでありました。神は回復の預言を与えたのです。それが54章なのです。10節を見ていただきましょう。「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない』とあなたをあわれまれる主は言われる」どのような事が起きたとしても、わたしがあなたをいつくしむということ、平安を与えるというこの契約は絶対に不動のものだ。山も移ることがあろう、丘も変わることがあろう、しかし、わたしの約束、いつくしみと平安を与えるところの契約は変わらない。あなたが、なるほど、不信仰になって揺り動いたであろうけれども、審判によって、一時バビロンに移ることもあろうが、わたしの、わが民に対する愛や慈いつくしみが変わったのではないと言っているのです。54章の3節を見ますと、「あなたは右に左にひろがり、あなたの子孫はもろもろの国を獲、荒れすたれた町々をも住民で満たすからだ」ネヘミヤという指導者がエルサレムに帰って来た時、もう悲しくて悲しくてたまらなかった。城壁は崩れ、神殿は焼き払われ、礼拝の場所を失ってしまった、そういう状況だった。エルサレムは荒廃しきっていたのです。しかし、この約束によるならばどうなるか。「あなたの子孫は諸々もろもろの国を獲、荒れすたれた町々をも住民で満たすからだ」。エルサレムの復興が、ここに預言されているわけですが、

今日のわたしたち、新約時代、恵みの時代に生きているお互いにとってはどういう意味をもっているのでしょう。イエス様の十字架によって、人間は回復する。神の恵みは、イエス様の十字架によって与えられる。わたしたちは、今一度、大胆な信仰を持って、この新しい年を進んで行くべきだというのです。わたしたちがイエス様を信じるという事は、神の恵みであります。信じる世界というのはすばらしいです。ですから、神様があなたがたを選んだのは、単に教会へ通う、教会へ参加するひとりの人間として選んだのではなくて、あなたを「祝福の基」とするために立てた。驚くべき神様の知恵に基づいて選ばれてるんですよ。だからわたしたちの人生は、決して、未信者まがいといっては申し訳ないけれども、本当に、神の命と力に満ちて神様の期待に答えていかなくちゃならない。神様の期待に応答していくべきだと信ずるわけです。ですから今日、「あなたの天幕の場所を広くし」、これは領土の拡大です。「あなたのすまいの幕を張りひろげ」、遊牧民でありましたイスラエル民族には、この言葉がピンときたわけです。本当に、天幕を張りひろげなさい。そして綱を長く伸ばしなさい。そしてあなたの杭を打ち込みなさい。すなわち、現状のままでは、もういけない。この新しい1981年は天幕を張りひろげなくてはならないほどの恵みを神様が与えるというのです。場所を広くしなくちゃならないほどのものなんだ。あなたの人生においてこの年は、今までのくり返しというようなものではないというのです。これが神様のプランですよ。

1980年、思い起こせばわたしにとって、本当に感謝な年でありました。皆さん個人個人においてもすばらしい体験をなさったと思いますが、何といいましても昨年は、ビリー・グラハム国際大会の年でした。昨晩も、年の終わりの感謝の祈祷会が開かれ、その時にわたし自身も、共に感謝の証しをさせていただきましたが、その福岡大会の副委員長と財務委員長としての責任を負うように依頼されましたが、当初「そういうことをしなくても」という気がありました。とにかく、何が何でもやって下さいと押しつけられたような形になったわけですが、引き受けました。5000万円の予算(実際、4300万円位かかったと思うのですが)に対して3500万円位は、何とか集まるんじゃないかと思いましたが、4千万円を越すということは、福岡において、そして九州において、難むずかしいんじゃないかと思いました。実際に、あの大会が終わった直後は、700万円ぐらいの赤字になっていた。これが現実かもしれないと思いました。そしていよいよの時に腹をくくらなくちゃならないなあ、とさえ思っておりました。

しかし神様は、大会が終わり、そして年の暮には、一切を満たして下さって、150万円程のおつりが出る位にして下さった。来る1月の22、23日は、いっさいの締めくくりの感謝会を開きます。まあ感謝会というものは、普通は飲んだり食ったりするのが常でありますけど、わたしはその時「飲み食いするのも結構ですが、それよりも、せっかくですね、協力した九州、それから山口にあります教会が約130教会もあるのだから、その教会の先生方をお招きして、感謝の聖会をしてはどうでしょう。ただ食べて、ああよかった、人々が救われて恵みだ、というだけではなくて、もう一度、協力教会の先生方と、1981年の初頭に、共に集って、共に感謝し、共に力をいただいて(あのビリー・グラハム大会において祝されたのだから、その恵みに支えられて)1981年の、いやそれ以後の、日本の伝道を展開したらどうでしょう」と提案しました。「ああ、それは結構ですね、そういたしましょう」ということになりました。

そしてわたしたちの教団の鈴木1郎先生をお迎えすることになりました。22、23日、唐津の国民宿舎を全館借りきって、そしておいでいただく方の滞在費いっさいを受け持って、それでも余りがあるまでに満たして下さったのです。わたしはその事を思う時、皆さんも祈ってね、先生が財務委員長だから、何とか満たしてもらわなくてはということで、信仰のゆえに、また、愛のゆえに祈ってよく献げて下さった。わたしたちの教会からは、250万円を越す献金をすることができたんですよ。わたしも最初は、会堂建築もあるんだからという気持もありましたが、大会に最も多く献げた教会になることができました。恵みじゃないですか。

昭和41年の「本田クルセード」で田代姉妹が救われました。あの記念の本田クルセードの時、わたしたちは開拓教会で自給したばかりの小さい教会でした。しかしその時にも、福岡における伝道のために1番多くの献金を献げる事ができました。その時も、わたしは財務委員長でしたが、神様が助けて下さって、予算を越えて献金が溢れましたね。100万円の予算で、市民会館を使ってやりました伝道会でありましたが、20万円位余りまして、東京の本田クルセードに献金する事ができました。今回もビリー・グラハム伝道団に献金する事ができました。

愛する皆さん。わたしはね、昨年恵まれたなあ、別にわたしが財務委員長だから全部満たされるというわけではないのですが、神様が、「神様の名」のゆえに、祝して下さったなあー。「横田先生になってもらったら満たされますよ」なんてですね、気安く言って下さる先生方もいらっしゃいましたけれども…。わたしがなったから満たされるわけではないですが、わたしが責任を持たされた時、聖霊の助けとみなさんの祈りと協力で、神様がその責任を十分果たして下さったと思い、感謝しているんです。

皆さんにとっても昨年は大きな恵みがあったでしょう。しかし神様はこの年、この年頭に当たって、何としても「あなたの天幕の場所を広くしなさい」、なぜならば「あなたの荒れすたれた町々をも住民で満たす」と。これは、イスラエル民族にとっては回復のメッセージでありますが、現代、1981年に生きる個人個人のクリスチャンにとっても、神様は、昨年の恵みで終わるのではない。あれがピークであったというのではない。この年から、尚もあふれる恩寵を与えようというんですよ。だから嬉しい。

ジョン・バンヤンの「天路歴程」にクリスチャンが落胆の沼に落ちる箇所があります。出よう出ようと思えば思うほど、ブクブクブクと沈むのです。そこは底なし沼ですから。落胆というのはどうしようもないです。気落ちしている人を励ますのは難しいですね。悪魔がやる1つの方法は「お前はダメだ、もうダメだ」「ダメだ、ダメだ」ということだと思うんです。神様はわたしたちに対して希望を与えて下さいますけれども、悪魔はですね、わたしたちに失望を与えるわけです。クリスチャンともう1人の人が「天国ってそんなにすばらしいんですか。わたしも連れていって下さい」といって、2人でスタートするんですが、2人がぶつかったものは落胆の沼で、底なし沼に落ち込んだわけです。落胆の沼に落ちこんだ時に、1人の方はせっかく天国を目指しながら進んでいたのにね、そこからやっとはい上がってきたのはいいが、逃げ出してしまったのです。一方、クリスチャンの方は、天国に近い側に、同じはい上がってくるのでも、向こう側へ、天国に近い方へはい上がって来た。その時の説明があるんですが、底なし沼であってもね、ちゃんと印をしてありますって。落胆の沼だからですね、もうどこまでもどこまでも、ブクブク、ブクブクと沈んでいくのじゃない。沼のちょうど真中にね、敷石がある。敷石とは何か、御言です。

ある方は、先生、昨年、わたしはそれほどよい年ではなかったから、この81年はどうでしょうか、と言うかもしれません。聖書が、聖霊が、この朝、皆さんに語って下さるのは何か。昨年よりは今年、去年と同じ程の恵みではなくて、さらにまさる恵みを与えて下さるというのが神様の御旨です。信じますか、本当に信じますか。アーメンですか、本当にアーメンと言ってほしいですね。御言をしっかりと信仰をもって握りしめていないと、底なし沼にブクブク、ブクブクと沈みます。わたしたちのね、過去の経験が、暗いかげや失敗が、神様のすばらしい約束、すばらしい将来、すばらしい契約を受け取るのを躊躇させてしまうのです。そういうような時に、わたしたちは“お言葉ですから“と信仰を持って行くんですよ。最近つくづく思い、また言うんですよ「御言にね、しがみつきなさい」と。先日もある方がですね、相談がありますといってやって来ました。で、どんな相談ですかと聞いておりますと、「わたしは会社を馘首くびになりました。わたしは平気なんですけれども、家内からね、やいのやいのと言われるもんですから」というような話をしておりました。そして「どうしたの?」、「先生お祈りしてほしい」「ではお祈りしましょう」という事でですね、詩篇50篇の15節を開きました。

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」これです。ここにね、あなたのなすべき分と、神様がして下さる分が書かれております。あなた自身のなすべき分は何ですか「汝われによび求めよ」。そうすると神様のなさる分は何ですか、「われ汝にこたえん」。その結果は何ですか。「神様を崇めるような事になる」。この御言をですね、あなたのために差上げます。今、お祈りしましょう…そしてわたしたち2人はお祈りしたわけです。お祈りした後に、「これが悩みの日に、あなたの握りしめる御言ですよ。握りしめてね、これを握ってはなさないで、祈り続けなさい。神様は『悩みの日にわれをよべ』そうすると神様は応答すると言われております」と話しました。きっと「わあ、さすが神様だ!!」というすばらしい結果を見ることでしょう。

この新しい年、みんなに語られているすばらしい神の御言が、なぜある人には実現し、ある人にはそうでないのでしょう。御言にしがみつかないからです。あえて、「しがみつく」という言葉を使いますけれども、みことばを「受け入れる」でもいいんですよ。言葉をやさしくいえば信じたらいい。しかしわたしはあえて、「しがみつけ」というのはね、もう信じられないような状況下にあっても、この御言をギュッと握りしめたらいい。神は、このみことばの実現をして下さる。わたしたち人間は、どんなに万全を期しても、駄目な場合もある。しかし、わたしたちが駄目でも、神様はわたしたちの信仰に応答して下さる。どうか、この年、主を期待しようじゃないですか。1年は365日しかないんですが、皆スタートラインに立っています。

皆、信じましょう。そして進みましょう。同じキリストの体につながるクリスチャンとして、お互いに励まし合いながら行きましょう。目に見える所、見えない所、霊の恵み、また物質の祝福、具体的なわたしたちの生活の中にも、神の大きい力を、体験していこうではありませんか。どうですか。体験したいですね。本当にその信仰をもって前進したいと思います。

そこでルカによる福音書の5章をお開き下さい。1節から11節まで拝読いたします。さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せて来た時、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、そこに2そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

ここに、イエス様がシモン・ペテロに言われた言葉があります。沖へこぎ出して網をおろして漁をしてみなさい。シモン・ペテロは、そのことばを聞いた時に、彼の心の中に、闘いがあった。すなわち、彼の今までの経験によるならば、一晩中漁をしたけれども、全然とれなかったという不漁。これが、第1点。第2点は、ガリラヤ湖におけるその漁法です。ガリラヤ湖で魚をとる方法は、長い経験と知恵にもとづいて夜しか漁をしなかった。にもかかわらず、網をおろして漁をしてみなさいとは何事ぞやと。一晩中必死でやったけれども一匹もとれなかった。もう太陽は大分昇っている。彼の経験と、今までの漁師としての知識は、このイエス・キリスト様のおことばを、素直に受け入れることはできませんでした。

しかし、あえて彼は言いました。「お言葉ですから、わたしは網をおろしてみます」。キリスト様のお言葉に対する信仰と服従を持ったんですね。神様が、わたしたちに命令される時は、いつも、わたしたちを困らせ、わたしたちを苦しめるための御言は、一句もないんです。豊かな、わたしたち自身を祝福するための御言で満ち満ちているわけであります。「お言葉ですから」といってそのとおりしたら、どうでした。おびただしい魚で網が破れそうになった。もう一そうの舟にもいっぱいになり、両方の舟がいっぱいになった。わたしたちの信仰というのは、神様のお言葉に対する応答です。神様はわたしたちをかえりみていて下さるのですから、信仰を行動に現わして応答していきましょう。

神様が語られる時、「広げなさい」と言えば広げましょう。「伸ばしなさい」と言えば、伸ばしましょう。そしてですね、「杭を打ちこめ」と言えば、打ちこみましょう。そしてわたしたちの人生を悔いのない祝福されたものにしていただきたいのです。いいですか。どうぞみんなスタートラインに立ちました。只今一斉にスタートしたわけです。最後にもう一度言わせて下さい。この年、神様は、あなたに、あなたの町を住民で満たすから天幕を張り広げなさいと言っておられるんです。あなたの天幕の場所を拡大しなさいと言われている。そして、あなたの綱を伸ばしなさいと言われている。あなたの杭を強固に打ちこみなさいと言われている。学生は学生の天幕を、社会人は社会人の天幕を、張り広げさせていただきましょう。そして強固に打ちこみましょう。

祈っては杭を打ちこみ、信じては祈りましょう。そして神の偉大な奇跡的祝福を体験いたしましょう。

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