〔14〕 子女達の信仰継承 ( 7.14/2006 )
それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。それから、彼とその家族一同とに、神の言葉を語って聞かせた。彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。
(使徒行伝16章30節―314節)

今年の聖書の御言は前に書いてありますので、御一緒にいつものように拝読いたしましょう。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」有名な御言でございます。去年もこの御言から恵みをいただいたり、お証しすることができ、またお伝えする事ができましたことを感謝します。

去年のクリスマス、すなわち、12月20日の礼拝は午前にもたれまして、午後2時からは子供達の祝会、そして、夜7時からは大人の祝会をいたしました。その祝会の中で、吉田兄弟姉妹の一族が集まって、長男献一君のギター伴奏で、吉田龍昭家、それから吉田好久家、奥さんのお母さんの石丸家、妹さんの八尋家というように4家族が揃って合唱しました。子供達も入れての合唱する姿を見て、主の聖名を崇め、またこんなにまで神様の御救いが及んでいたのかと驚きました。そして聖名を崇めました。祝会後も「よかったですねえ」と声をお掛けした次第です。考えて見れば、吉田兄弟が導かれたのは昭和39年です。39年の7月、天幕伝道をしていた時でした。天幕伝道を8日間開いたわけであります。わたしが福岡に参りまして、第2年目の年でした。特別講師の先生が、お2人お見えになって、6日間の前半と後半を受け持たれたのです。それぞれの先生がお帰りになりまして、いよいよわたしが、その後を引き受けて、言うなれば、おまけの2日間の伝道をすることになりました。当時、29才だったかと思いますが、伝道説教をさせていただきました。

吉田兄弟が最後の2日、おまけ伝道の日にやって来ました。そしてテントの入口の所に座っていたのです。何か声をかけられたら、すぐに逃げて帰れるような所に座っておりました。説教が終わった後に、「よくいらっしゃいました」と言って、「つづいて教会へいらっしゃい」と話しかけました。主は彼を導いて下さいまして、教会へ来るようになりました。祈祷会等は2人きりで、マン・ツー・マン。長期間の集会の後でしたので他の方はお見えにならなかったものですからね、吉田兄弟と、祈祷会を開いたこともありました。彼が救われて間もなく、それこそ裸一貫とよく言いますけれども、何にも無い、本当に「裸1貫」。その時、わたしもですね、吉田兄弟に何もしてあげることができません。けれども、わたしのできる事は、謄写版の印刷機を一つ、これはわたしのじゃない、ある人からもらったものですが、兄弟に上げた事があるんですよ。中古のガリバン一台、彼の最初の道具だったんじゃなかろうかと思うのです。これが彼のスタートでした。

その彼にですね、神様がまた、すばらしいと言って良いと思うんですが、1人の姉妹を備えて下さり、結婚に導かれました。最初は小さいスタートでした。1きれの魚を2人でわけ合い、仕事にとりかかるというようなつつましいスタートでした。しかし御言に従い、そして御言に教えられて、この家庭が築き上げられて来た時に…吉田兄弟が救われただけじゃない、そしてクリスチャンホームができただけじゃない。弟さんの家族も救われました。それだけではない、姉妹の方もですね、佐世保で自ら求道中の身でしたが、「家族の救いを」という事を願って、この福岡にいる両親一家のもとにこられたのでした。

そうして、福岡で更に信仰に導かれ、受洗されたのです。妹さん達を日曜学校へ導き、つづいてお母さんを導かれたのです。吉田姉妹は、せっせと妹さん達を日曜学校へ「行きなさい、行きなさい」と励まし続けました…。それがどうでしょう、去年と言っても今日から10日前のクリスマス祝会の夜の事です。彼女のお母さんが、1昨日の祈祷会で証しされていました。「すみ子(彼女の妹さん)の主人が祝会の夜主を受け入れました」と。他の人が伝道して救われるのもすばらしいけれども、自分の母親に自分の夫の伝道を依頼し、お母さんが御言を伝えてですね、救われた。素直に受け入れて、イエス様は何処にいますかと言ったならば、「はい、心の内にいます」「クリスチャンになった確信が持てましたか?」「ハイ」とハッキリ言ったそうです。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。それからすぐ後のことですが、12月25日夜の、楽しいヤング・クリスマス・パーティに、1人の中年の方が出席されました。

「わたしは吉田さんの知り合いなんですよ」「ああ、そうですか、わたしも吉田さんとは長いつきあいなんです」「やあ、わたしもです」「あの人達が仕事を始めた時から知ってるんです。吉田さんは良い人ですね」と言われた。教会の信者さんが“良い人ですね“と言われたら、わたしまでほめられているような気がしてですね、うれしくなりますね。牧師だけでなく、イエス様も喜ばれることでしょう。高倉兄弟が証しをする時の導入部分の言葉があります。「わたしの娘がいいました。お父さんが救われたから、わたしたちみんな幸せになりました」。それは過去の言葉だけでなくて、その幸せはなお広く、なお深く、なお多くの人々に、及んでいるのを見る時に、本当に主イエスを信じるということは、なんと幸いなことではありませんか。

去年の12月26日の土曜日、朝日新聞の朝刊第1面に、「非行の主役、今や中学生」と書いてありました。トップの記事ですね、新聞に1番大きくのっている記事です。「37%高校生抜く」校内暴力、通り魔殺人、少年補導18万人「記録また更新」。そしてその下に福岡は、“非常事態宣言“と活字で書かれ、わたしはこれをずうっと読んでいました。その解説の所を読んでみますと、今の中学生というのは(今日も中学生の皆さんが、礼拝に出席していますが)物心のついた時、カラーテレビの時代であり、世の中は、所得倍増、経済優先、そして、稼げ稼げ、儲か儲かる、そういう時代に子供達は育った。その子供達がですね、今は校内暴力、「先生、何言ってるか」と殴ったり蹴ったりする。恐ろしくてですね。フジサンペイの漫画によると先生の方が、卒業式が来ると獅子舞の獅子をかぶって校外へ逃げ出したり、女性に変装して逃げ出すというのが描いてあります。

確かな新聞の報道によりますと、もう授業にならない中学が福岡市内の中でも、1つや、2つじゃないそうですね。学校のガラスはぶっ壊されるは、先生には生キズが絶えない。そして授業中、昔は先生が「こら、なん寝よるか!」と、居眠りしている子供に、白墨をぶっつけたんですけれど、今は、生徒の方が先生に「何を言いよるか」と白墨をぶっつける時代とか。いや、笑い話のようですけれども、これがですね、最近の現実だということです。この記事を読んでいますと、福岡は非常事態宣言だと言われておりますが、全国でですね、東京、大阪その次は書いていないので、わかりませんけれども、わが福岡が4番目だそうです。そして福岡県警の本部長が、責任者になりまして、少年非行総合対策委員会というものを、設置したというんです。そして委員会が非常事態に際して、取り決めた事の第1は、街頭活動の強化。第2が、学校関係者との連絡連携の確立。第3、交通車輛の防犯登録の徹底を図ろうとした。

わたしは、これを読んだ時に、ポイントがはずれてるんじゃないかなと思いました。まあ、最後の交通車輛の防犯登録の徹底。これは、まあ、車を取られたりなんかするからという意味ではありましょう。街頭活動の徹底、活動の強化。それはわたしたちの住んでいる所の地域でもね、モデル地域になっておりますから、クリスマスの前の12月22日頃家内が役員をしていた時、家からも1人出て、桧原三角からずっと、ミスター・マックスの方や、ゲームセンターの方や、神社の方を、ぐるぐるぐると、役員達でパトロールしました。それは非行防止するためのパトロールです。これは対症療法ですね。次から次へと起きてくることを、あーあっあっと、こうあわてながらですね、後から後から、追っかけて行っているような、たちまちのことです。

しかし、もっと大切なことがあるのではないだろうかと思うのです。もっともっと大切なこと。今でこそ、省エネ、省資源、とか言っておりますけれども、今の中学生が育ったその時期において、世の中は、それこそ消費は美徳、浪費まで美徳のように言われ、何でも買い与え、使い捨てる中で育っておりました。

一昨年、ジュニア・キャンプで、由布院の青年の家にいった時に、ある有名な、フランスの社会学者が言った言葉として、副所長さんがわたしたちに教えてくれた言葉がありますね。日本を訪れて半年間、日本の社会を視察した。その社会学者が、日本を去る時に、「物で栄えて心で滅ぶ、ああ十字架なき日本よ」と言ってですね、その社会学者は日本を去って行ったというんです。考えてみますときに、今の時代は、偉い先生方や、いわゆる責任を持っていらっしゃる大勢の人々が、ああしたらいい、こうしたらいいと考えているではありましょうが、もうこの段階に至っては、どうしようもない、言うならば絶望的状況に陥っているのです。

この元日の新聞を見ますと、やはり離婚の統計が載っておりました。今朝の新聞ですが、離婚も、一昨年55年より、56年は1万2000件程増えた。ですから3分何秒かに1組ずつが離婚している。言うならば家庭は崩壊し、そして子供達は非行、暴力、どうしようもないような社会、罪と滅びの渦巻いている時代になっているというのをどう考えますか。今こそ、クリスチャン達が、本当に「主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われます」ということを確信を持って、宣言しなくちゃならない。わたしはこう確信します。

1人の人間が、イエス様を信じて、造り変えられ、清い、本当に愛の人に変えられて行く時、その救いの恵みはたった1人で終わらないで隣人に及んで行く。1人の人が変えられるということは、すばらしいことではないでしょうか。これはすばらしい働きをしていることなんです。そういうふうな意味においてですね、皆さんはクリスチャン、わたしは牧師。みんな共にこの時代に自分が救われただけじゃない。「祝福の基」として立てられているのです。自分達が信じている「イエス・キリスト様を宣べ伝える」ことは、社会にすばらしい貢献をしていることになるのですよ。

わたしたちはインドのカルカッタへマザー・テレサのように出かけて行くわけではありません。日本の限られた所で、毎日、毎日、変らない生活を続けています。主が導かれたら、アメリカでもグリンランドでも結構です、そこへ行かれたらよいと思います。わたしたちの多くは、此処に留まる。しかし、その所においてキリストを信じ、キリストの愛に生かされて進んで行く道は、インドのカルカッタであの奉仕にあけくれている、マザー・テレサさんと全く同じ働きです。それほど、値打ちのある働きをしているということを確信しなくちゃならないんですね。1人の人が堕落したら、その人だけじゃないのです。その人の回りまで堕落させ、そしてその影響は多くの人に及んで行くわけです。しかし1人の人が救われた、1人の人が潔められた、1人の人にすばらしい生き方が始まった時に、その恵みは他の人々におよび、他の人々もまたすばらしい状態になるのです。

昨年、この使徒行伝16章の311節より説教をした時にもお話しましたように、聖書の勉強については、これこそすばらしい研究をなさった方、あるいは、思想的には立派な方、色々な方がおられるけれども、そういう方の子女が信仰に導かれなかったという大きな原因の第1は、教会との結び付きがよくない。これは大事ですね。そこで聖書を開いていただきたいのですが、申命記第6章です。では、拝読いたします。4節から9節。「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯1の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたも門とに書きしるさなければならない。」

ここに子女の導き方が書かれているわけですね。先程、申し上げたように非行の嵐が吹きあれています。わたしの子供だけは別だということは有り得ないんですね。社会がそうなんですから。北九州に住んでおれば、あの煙突から一ぱい出て来る煙が、全部、町全体を覆うように、この日本を覆っている。そして不名誉なワーストNo4といわれる福岡に住んでおればですね、その影響はみなさんの子供さんにも、いやおうなしに及ぶのです。逃れる事ができないんですよ。それこそある中学では何人かが、もうこんな所では勉強にならないと言って転校したというのが新聞にありましたが、逃れても、逃れても、逃れられないような状況におかれているのです。あなたの子供達、心から愛している子供達に、何を与えましょうか。

聖書のこの所は、エジプトから召し出された選びの民、イスラエルに神がモーセを通して語りかけている所です。やがてあなた方は、約束の地、カナンの地に入るんだと。カナンの地に入ると偶像もある、当時の諸宗教もある、色々な民族との交流もあろう。しかしあなたは選びの民であるから、自分の子供達に、何を教え、何を徹底させなくてはならないかを、ここで教えているのです。その1つは何ですか。「イスラエルよ聞け、我々の神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」この主を愛する事を教えなさい。子供にその事を教えなさい。そして、子供は「ああ、そうか、わかった」と言える、理解できる年頃になってから、教えはじめるというようなものじゃなくて、この聖書を見ますと、こう書いてある。

「つとめてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない」「もううるさい。寝ても覚めても、そんなことを教えられたら、うるさい」と本当は言いたいでしょうけれど「うるさくやれ」と、ここに言うのです。「道を歩く時も、寝る時も」寝物語りですね。桃太郎の話もいいですけれど、それこそ「御言」を、「主を愛する」ことを教えましょう。同じ事をですね、「御題目みたいに言え」という意味とはけっして違いますけれど、子供に折あるごとに、教えていきなさい。「またあなたは、これをあなたの手に印しなさい」、忘れちゃいけない。「あなたの目の間に置いて、覚えとしなさい。」また「あなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない」「主イエスを信じなさい」ということでありますが、その主イエスを信じた者はそれぞれ責任を持っているわけです。親は子に対して、子は親に対して責任があります。ここでは、その選びの民がやって来て、堕落した民の中に、偶像の中に入って行く前にモーセは(このヨルダン川のこちら側でですね、荒野の側で)カナンを前にして教えた。これはモーセが教えたと言うより、神がモーセを通して選びの民に教えてるんです。

だからね、大事なことですよ。今日も、幼い子供さんが見えておりますが、わたしはこれは大事なことだと思っています。教育というものは、「うん、わかった、わかった」と言葉で理解できるような時期だけが教育だと思ったら大きな間違いですよ。

わたしたちは、子供には何を言っているのかわからないというような時にこそ教える必要があるのです。「うん、なる程」という前に、すなわち、雰囲気というものを通して、多く学ばせて行く。特に人間の基本的な生き方というものは、まだ何もわからない乳児期、幼児期から、雰囲気の中で学んでいくのです。家庭の雰囲気もそうでしょう。氷のようにヒヤーとしている中で育つ、冷たい原因は理屈じゃわからない年齢でも、冷たさを感じ、吸収する。また逆にですね、なぜホカホカ、ホカホカ、春のように暖かいのか、うんそれで暖かいのかと理解し納得する以前に、子供の直感で感じとり、これを吸収していくのです。

申命記6章のこの御言は、「幼き日から御言を教え、御言の中に育てよ」と語っているのです。神を愛すること、神を信じること、主イエスを信じることですね、その生活のただ中において、教え諭していくのです。神様を信じ、そして、わたしたちの信仰の告白としての神様を礼拝することを、やはり形をもって表明していく時、「あなたもあなたの家族も」というようにその救いと恵みは、末端まで及んで行くのです。

この年はどうでしょうか。主イエスを信じていますね。わたしたちは今日も御言を信じますが、信じたならばですね、あなたはその信仰の先取りをして、喜ばなくちゃならないんです。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。いや吉田兄弟は別ですよ、高倉兄弟は別ですよといわないで、信じて喜びましょう。弘子姉妹も、本田クルセードの時に、ダイエーの前でパンフレット1枚もらっていった。それから導かれて救われたでしょ。本人が救われただけじゃない。御両親も救われましてね、そして、おじさんも救われた。このおじさんは、東大の英文科を卒業されたような立派な教育者でありました。しかし御言っていうのは不思議な力があります。御言を学んだ後で、「どうですか、森川さん。イエス様をお信じになったら如何ですか、信じられない理由がありますか」「いや、ありません」「それじゃあ、信じましょう」ということで救われたですね。本当にね、理屈じゃなかったですね。それだけではない、おばさんも救われ、次々と導かれた。ここに共通の秘訣があります。主イエスを信じ、その御言に生き、そして主イエスを信じるということが、礼拝出席という形に表わされていく。申命記12章11節、12節を見ていただきましょう。

「あなたがたの神、主はその名を置くために、1つの場所を選ばれるであろう。あなたがたはそこにわたしの命じる物をすべて携えて行かなければならない。すなわち、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物およびあなたがたが主に誓ったすべての誓願の供え物とを携えて行かなければならない。そしてあなたがたのむすこ、娘、しもべ、はしためと共にあなたがたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。また町の内におるレビびととも、そうしなければならない。彼はあなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないからである。」あなたがたの神、主はその名を置くために一つの場所を選ばれているんです。場所を選ばれた神は、ここにわたしの名前を置く。そしてすべての人々が共につどい、御名をあがめて本当に祈って行くのです。3人の博士がひれ伏して拝んだように、「わたしはあなたを主と仰ぎます」と、礼拝する場所に来る時にですね、子供も大人も、そして家族、親族にも、御言の約束は実現されていくのです。

そこで年の初めには、よい夢を見るといいと申しますが、この年「わたしとわたしの家族は救われる」と今日信じましょう。またクリスチャン・ホームの方は、「いやわたしのところは、みんなクリスチャンですから、みんな洗礼を受けておりますから、言うことないですよ」といってはなりません。取るべき地尚多し、なお多し! そこだけではない。この1軒の中だけじゃない、わたしの里、お嫁に来ていらっしゃる方の里、御主人なら郷里、そしてなおもなおも救いを待っていらっしゃる方々がいるのです。そしてその救いを更に周囲に及ばせましょう。

昨年末、「楽しい聖書の集い」でこう話しました。皆さん、神様のお約束を信じて受け入れたら、どうなるのか御存じですか。先ず第1番目に喜びがわいてきます。信仰は喜びです。わたしの家族が救われるんだなと信じて、神様のお約束を喜びましょう。わたしはイエス様を信じている。今はどうであれ、ありゃ難かしい、あんな人が救われたら奇跡やというような人もですね、神様はお約束ですから、主イエスを信じる信仰の表明をしていく時に、実現しますね。聖書にガダラ人というのが出てくるでしょう。墓場につながれていた、チェーンでですよ。鉄のチェーンで、つながれていたけれど、ウーッと、何人力というのでしょうか、全部引きちぎってしまった。そして夜となく、昼となく、「ウォー」と叫んでいる。悪鬼憑きと書いてありますが、本当にそのような手におえない人も、イエス様によっていやされるんです。正気にもどるのです。正気にもどった時に、彼は、救って下さったイエス様に感謝して、イエス様が次の伝道地に行こうとした時に、彼は「イエス様、わたしも連れていって下さい」とお願いした。すると、イエス様は「ノー。来てはいけない」なんとひどいイエス様、とその瞬間思ったかも知れませんけれど、その時イエス様は「あなたの家へ帰って、主がどんなすばらしい御業をなさったか、どんなにあわれんで下さったかを証ししなさい」と言われたのです。彼は帰って行って、デカポリス地方で「証しをした」と書いてあります。あの鎖を引きちぎり、夜となく、昼となくワー、ワーさわぐけもののような人間。その人もイエス様によって救われた。いや、救われただけでなく、証しもしたのです。御言の約束にたって、今日、まず信じましょう。「わたしは主イエス様を信じます。主のお約束も信じます」と、「そうしたらあなたもあなたの家族も救われます」。

信じるという事は喜ぶことです。想像してみて下さい。「はい、わたしのお父さんが救われる」と。本当にですね、うれしくなって来るでしょう、それですよ、信仰っていうのは。これは、子供の実例をあげるとよくわかる。「お父さんは今日から出張してくるけれど、おりこうさんにしていると、帰りにお土産買って来て上げるよ。何のお土産がいるんだ?」「飛行機を買って来てちょうだい」「よし、買って来てあげる。その代り、おりこうさんにしておくんだよ」と言い聞かせてるとですね、子供はどうですかね、もうすぐ信じますから。もうそのお父さんの約束を聞いたとたんに、自分の手の中に入れたような気持ちでしょう。どうですか。「お父さんは信じられん」とかですね、「見るまでは信じられん」、そんなに言うとお父さんは失望しますね。こりゃ本当に問題ですね。お父さんと子供の関係が普通の場合は、お父さんを信じている。「お父さん、ありがとう」と喜んでいます。そしてね、友達にも自慢して、宣言していますよ。まだもらってないのに、もう言っている、まだ手に入れてないのですけれども、彼は言っているんですね、

「あのね、僕ね、今度、飛行機買ってもらうのよ!!」「どんな飛行機?」「全日空のね、こうなったね、マークのついたやつ」、もう自分の頭の中に描いて。そしたら、いじわるな友達が、「まだ、ないんじゃない」と言っても、「お父さんが言ったんだから、間違いない、お父さんはうそ言わない。」そしてですね、もう手に入れてるもののように、喜びながら、証ししている。これは神様の御言に対する信仰「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」と同じです。「いや飛行機、まだもらってないもん、信じられん、信じられん」、こりゃもう悲劇的な関係ですよ。しかし御言を信じ、喜んでいる。喜んでいるだけじゃない、もう自慢している、「君は、持たんだろう」と言わんばかりにですね。子供は、まだ持ってないんだけど、今に実現することを信じて、証ししているんです。主イエスのお言葉を信じましょう。そして喜んで証ししましょう。

わたしはこの元旦において、このメッセージを取り次ぎます。本年の暮れには、この御言が実現しました、喜んでわたしは生きてきましたと言えるように、信仰を持ってスタートしましょう。自分1人が救われることは、すばらしいことです。それだけじゃない、家族が救われて、親が、子供が、兄弟が、親せきが、友人が救われていくために生きましょう。

わたしは先程言った言葉を繰返します。インドのカルカッタで尊い奉仕をされている、マザー・テレサと同じです。まさるとは申しません。おとるとも言いません。同じ貢献をわたしたちは、この世界に対してしていることになるでしょう。これは世界への愛の働きです。わたしたちは、御言を感謝し、信仰をもって、新しいこの年スタートしましょう。そして愛に生きましょう。

憎しみや、ねたみや、裏切りや、傷つけあいはもう充分です。そんな生活は、もういりません。愛して、祈ってすすみましょう。信仰によって、その方向に歩みかける時、主は伴うしるしを持って、御言を実現して下さいます。ハレルヤ。

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