〔15〕 天を思う生涯 ( 7.14/2006 )
このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
(コロサイ人への手紙3章1節―4節)

このコロサイ人への手紙の3章からは、クリスチャンの倫理、すなわちわたしたちが具体的にどのようなことをすればよいのか、どのようなことをしてはならないのか、そういうことが、こと細かく出てくるのであります。例えば3章の8節、9節を見ますと、こういう言葉がございます。「しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと1緒に脱ぎ捨ててしまいなさい」

こういう聖会などで聞いている高く、深い恵みから考えると、只今の所は、「うそを言ってはいけませんよ」というようないたって平凡な、いたってあたりまえな教えとさえ思えてくるわけです。その後を見ますと、「妻たる者よ…」と18節にも出てまいりますが、「妻たる者よ、夫に仕えなさい、それが、主にある者にふさわしいことである」「夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない」「子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである」「父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから」「僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい」

今見ましたように「夫たる者よ、妻たる者よ、両親よ、子供よ、そして使用人よ」というように、クリスチャンがどのように生きていけばいいのか非常に具体的に出てくるわけです。そういうようなクリスチャン倫理を述べている3章でありますが、その倫理の基本的姿勢がこの3章の1、2、3、4節の中に記されているのです。わたしはひとりの牧者として大勢の人々の牧会をしております。その牧会の中で、色々考えさせられることがあります。そのひとつは、信者の皆さんに、あれこれとお教えするのでありますが、基本がわかっていないとですね、いつも、この時にはこうするんですよ、あの時にはああするんですよ、とこと細かいことをいちいち、いちいち言わなくちゃならない。しかも24時間それこそ密着牧会というわけには行きませんからね。わたしたちはこういうような聖会において、すばらしい高度な、また深いメッセージを聞きます。キリスト様を信じ、キリスト様によって潔められ、聖霊に満たされるという生活が始まっていくわけです。根本的な真理が本当にパシッとわかっていますと、具体的な生活が始まっていく上において、この時にはこうするんだな、この場合はこういうように歩むんだな!というように、この基本、原則から具体的な適用ができていくのです。

ではその基本とは何かと申しますと、次の2つのことであります。

「上にあるものを求めなさい」
「上にあるものを思いなさい」

聖会が終わりますと、ある方はこのところから汽車や電車、あるいはバスに乗って帰ります。どういうことを心がけて生活したらいいのか、「上にあるものを求めなさい。上にあるものを思いなさい」、これでいいんです。案外、簡単じゃないか、ということですね。実にシンプル、神様の真理はシンプル、本当に単純にして明快。むつかしい複雑なことを言ったら、ある特定の人しかわからないから、みんながわかるためには、神様は至ってシンプルな真理をもって生活するようにしていて下さる。今、その真理をご覧いただきたいと思うんですが、3章の1節、2節「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい」「あなたがたは上にあるものを思うべきであって…」

わたしたちの生活、わたしたちの歩みの原則は、上にあるものを思う生涯です。クリスチャンというのは天を思う生涯ですから、わたしたち潔められた者たちの歩みの基本は「上にあるものを求めなさい。上にあるものを思いなさい」です。さて、上とは何でしょう。まさか上、下というように、上だからといって空の方を、太陽の方を、月星の方を仰ぐとしたら、ブラジルの人はどうなるんでしょうか。日本の人は上だと言えばブラジルの人には下になってしまうわけですね。地球は丸くて逆になるから、この“上“とはそういう事ではありません。上とはほかでもない「キリストが座しておられる」ところ。キリスト様が座しておられるところが天なのです。キリスト様が、かつて座しておられたというだけではない、今も座し続けておられるところです。

この「座す」という言葉で、非常に心に残る御言が詩篇の2篇にあります。1節から4節、「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、『われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう』と。・・天に・・座す・・・者は・・笑い、主は彼らをあざけられるであろう。」天に座する者、主は天に座しておられる、すなわち主が「座する」とは統治を意味し、支配を意味する。ですからこのところに言われている「天を求めなさい」とは、「天」とはほかでもない、イエス・キリスト様が座しておられるところ、すなわち、キリスト様が御支配し、キリスト様が統治している世界。ですからわたしたちのクリスチャン生活の基本とは、ほかでもない、イエス・キリスト様の御支配、イエス・キリスト様が王の王、主の主、万軍の主として統べ治め給うことを求めて行きなさい、ということです。

ここの“求めなさい“という言葉は、ある日、熱心な、涙の祈りがささげられたという1回きりの出来事ではなく、生涯キリストがわたしの支配者であるように、キリストがわたしの王であるように、一瞬、一瞬、わたしにとって「主はわが主です」、「主はわが王です」、「わたしの心の中心に我らのために傷つき、我らのために血を流し、我らのためによみがえったキリスト様が王としています」、それは過去のあるひとときの出来事だというだけでなく、「この日も、主よ、あなたは、わが天に座するお方だ」という日々の祈りを意味します。

次に「上にあるものを思え」と書いてありますね。「思え」っていうのは「考えなさい」という意味じゃないのです。これは、ピリピ人への手紙などには7回も出てくる大切なことばでありますが、これはただ知的に関心を持つというのではなくて、愛情を持って心にいだくということです。すなわち、このお方をお慕いし、このお方をわたしたちは、本当に「慕い求め」、あるいは「いとおしむ」のです。これが「思い」というここの意味なんです。ただ「考え」というのは―“thinking”―じゃないんです。上にあるものを求め、上にあるものをお慕いし、いとおしみ、愛する、こういうようなクリスチャン生活とはほかでもない、「主よ」とわたしたちは祈り、主との交わりの中に生き、キリストとのコミュニケーションを持ち、キリストを愛し、キリストを伝えていく生き方です。

したがって「地上のものに心を引かれてはならない」というすすめは当然のことなのです。地上のこととは「不品行、汚れ、情欲、また貪欲」というようなものです。上にあるものを求め、上にあるものを思い、天を思い、天を慕って生きていくクリスチャンは、もうそのドロドロした、かつての未信者時代のような生き方をしないのです。豚じゃあるまいし、犬じゃあるまいし、1度吐いたものをもう一度食べに来たり、きれいになった身体で、もう一度泥の中へはいってひっくりかえりますか。そんなことはしませんね。もう天を慕うクリスチャンには、地上のものに心を引かれない。もうそういうものは疎ましい。そんなものはもうわたしの性質から、「我と汝となんのかかわりあらんや」。かつてはそういうものを慕い、そういうものの中で生きてきたお互いでありますけれども、変ったのです。天を求め、上にあるものを求め、上にあるものを思いつつ生きるクリスチャンは、地上のものに心をひかれてはならない、こういうものに心を引かれて右に左にウロウロしてはならないのです。

「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。」(詩73・25・26)

わたしはこの「心を引かれてはならない」というのは、ただここに書かれてあるように「不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲」というようなものだけではないと思うんです。ともすれば、わたしは「教会成長、教会成長」といって一所懸命になっている方なんですけれどね、教会成長ということはすばらしいし、大切なことではありますが、ある意味においては、そのことで天を思うこころ、主を慕い、主をいとおしみ、主を愛する思いをいささかもそれさせてはいけない。奉仕、奉仕と言いながら、主御自身から離れたり、あるいは主との間にベールがかかったようになってしまってはいけないんです。

うるわしい老夫婦が生活している。御主人の誕生日が近づいてきていると言うので、老夫人は暖かい靴下を誕生日のお祝いにしましょうと、せっせと内緒で編みものをしている。今までは夕食の後は楽しい語らいの時がもてていたのに。(食後はすぐ部屋にひきこもっていた)誕生日がやって来ました。そして御主人に「あなた、あなたの誕生日のためにわたしは心をこめて、この編みものをしあげました。」と言ってプレゼントした。御主人は「ありがとう、愛のこもったこの靴下を感謝するよ。しかし2度とこのような事をしないで欲しい」…靴下を編むのに熱中した余り、2人のコミュニケーションが欠けてしまったのです。わたしたちもこの仕事をしなくちゃ、あれもしなくちゃと、それこそ忙しくしている。また365日、1日24時間中、教会成長のことを考え続けなさい、そうしたらあなたの教会は成長します、なあんて言われるものですから、ああ教会成長、あの兄弟、あの姉妹、あの仕事、この仕事、ああ週報を送って、訪問して…。

アルコール中毒というのがありますがね、日本人はワーカホリック、働き中毒って言われていますが、それと同じく教会成長中毒になってしまう。中毒だからこうしていないと心が落ち着かないのです。ああ、恐ろしいですね。わたしたちにとって大切なことは何か、天を思い、いつも上にあるものを求めつづけることです。

あなたにとってキリスト様は慕わしいお方でしょうか。あなたのために血を流し、あなたのために最後の1滴まで、ゴルゴタの丘の上において血を注がれた主イエス様。今までもこのように主を愛して来ました、今朝、わたしはまた新たに、今日初めてのように「主よ、愛します」と申し上げましょう。今はやっていることばに「君に胸キュン」、愛していると胸が熱くなるというわけですね。香登修養会は年齢の差がありまして「胸キュン」といっても笑いがでないんですけれども、本当に胸がキューンと、すなわちイエス様のことを思うと胸がキューンとなる。丁度恋をする若者達が、愛する者を思ってキューンと胸が締めつけられるようになることです。「胸の痛みに耐えかねて」という歌が昔ありましたけれども、(笑)主がわたしを愛して下さる、わたしも主を愛する。これが上を思うということなんですが、こういう「主を愛する」というBestを、他の「悪くはないもの」や、GoodやBetterをもってBestをすりかえてしまってはなりません。そういう危険は有り得る事です。

「賜物より、いやしより、さらにまさる与え主」、主御自身、この事が大切ですね。いいですか、この勧めをわたしたちが学び、心をキリストに向け、キリストを愛して進んでいくとき、様々ないましめは難しくないんです。たとえば「嘘を言っちゃならない」というモラルなどは何か特別なものじゃないのです。「上にあるものを求めなさい」…「上にあるものを思いなさい」という勧めは、次の経験を持った人に語られたものです。すなわち、「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから」「あなたがたはすでに死んだものであって」

また、コロサイ人への手紙2章の12節にもその事が書かれています。「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである」わたしたちクリスチャンとはどういうものなのか。クリスチャンというのは、「キリストと共に死に、キリストと共によみがえった」人のことです。死んで生きたと言えば、何か特別な人種のように思ったり、特別な人が生まれたようにわたしたちは考えやすい。いいえ、そうではないのです。クリスチャンというのは本来死んでよみがえった者を言うのです。あなたがたはキリストと共に死んだ、そしてよみがえった。これがクリスチャンです。あなたは死にましたか。昨日もメッセージがありましたけれども、はっきりと自我はキリストと共に十字架の上に死んだでしょうか。わたしはキリストと共に死にました。生きているのはわたしではありません、キリストがわたしの内に生きていて下さる。

神学校で小島伊助先生から伺ったお話ですが、皆さんもお聞きでしょう。ある聖会に行くとひとりの姉妹が祈りかけた、長々と…。「わたしはクリスチャンになって、日曜日は教会の礼拝に行かなくちゃならない、嘘を言っちゃならない。什一献金もしなくちゃならない、親にも仕えなくちゃならない、そして兄弟姉妹とも仲よくしなくちゃならない、あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ…」それは長々と祈った。まるで「一般市民の自由に」かえしたまえというような祈りが、長々と続いたんです。もう小島先生も、「姉妹、祈りはそこまで」と言おうかと思った。その時「という時代もありましたが…」と祈りは変ってきた。「今は主を崇め、主を讃美して、礼拝は喜びであり聖書を読むのもお祈りも楽しくて、クリスチャンとは何て自由でしょうか。日々喜びと感謝、日々勝利です…」

天が開かれたような祈りがずーっとなされた。そうですよね、キリストと共に、わたしの自我は十字架で処理されました。キリストのよみがえりにわたしもあずかり、よみがえりました。ここに信仰生活の新しい展開がはじまったのです。次の御言を見て下さい。このことを違った角度から述べております。「わたしたちのいのちなるキリスト」(コロサイ3・4)
いいじゃないですか、わたしはこの御言をね、改めて感謝します。
「キリストがわたしのうちに生きておられる」というこの御言は、ガラテヤ人への手紙2章の2十節ですが、このコロサイの3章、4節を見ます時に、「わたしたちのいのちなるキリスト」、今わたしは生きている。わたしが生きているその命は、「いのちなるキリスト」なのです。目ではこの肉体しか、外側しか見えませんがその命をずっとたどって行くと、キリスト様の中にあった。そしてその命はキリストと共に神の中に隠されている。ですからわたしの命は、「神と小羊との御座から」流れ出ているわけです。すばらしいですね、キリストのいのちを持つクリスチャンは。日照りが続きますと植木がショボンとしおれてしまいますね。植木でまず1番にやられるのは、やはり小さい、根の浅い木からやられていきますね。枯れて茶色になってしまう。ところが、真夏の太陽が何日も何日も照り続いてもね、平気な木があります。それは大木です。むしろ日照りでなお成長し、なおその葉の色を濃くしている。それは根が違うんですね。サツキやツツジのような、根がすっと抜けるような植木じゃなくて、大木の根はぐっと下へ下へ伸び、遂には地下水にまで届いて、地下に流れている水の中に根毛がはいっているんです。だからどんなに照っても、むしろ照った方がなお成長するんですよ。

わたしたちはどうですか。「わがいのちなるキリスト」=わたしのいのちのルーツ。あなたのルーツはどこですか。・キ・リ・ス・ト・と・・共の・・神の・う・ち・に・・隠さ・れ・て・い・る。これが成長の秘密ですよ。主を知らない人にこの恵みの世界は閉ざされた世界でありますが、わたしたちにはわかっている。なぜわたしは悲しみの日に主を崇めることができ、わたしの前に困難や患難等、それこそ大きい壁があるとき、なお絶望しないでおれるのかがわかっている。命がキリストから流れて来ているからです。「イエス・キリスト、わが命」。今は隠されている。しかしその次を見ますとこう書かれております。4節の後半です。「わたしたちのいのちなるキリストが現われる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう」わたしたちは栄光の朝、キリストが王の王、主の主として目に見える形で現れる時、わたしたちの命なるキリストと共にわたしたちも栄光の像かたちに変えられて、疑う世人の前に輝く者として出てくるのです。この栄光の日がわかると、悲しみ、苦難、迫害の中にも勝ち得てあまりあるクリスチャンとして立つことができるのです。「上を仰ぎ、上を求め、上を思って」進んで行くお互いにとっては本当に文句なしですね。

昨日の晩、わたしの息子が、この聖会にやって来たんです。今この集会に出席していますが、彼は今年の夏、信州の聖高原で開かれた青年全国大会で神様の恵みに応えて献身する決心をし、神様の前に立ち上がることができました。感謝なことです。いつかここでメッセージのときお話ししましたけれど、わたしが飛行機に乗って行こうとしたが飛行機がなかなか離陸しない。とうとう飛行機がオーバーランし、激突しそうだというお話をしたことがあるでしょう。(これは夢ですけれど)その時、必死で、わたしの隣に座っているまだ幼い息子に覆い重なるようにして、その激突から息子だけでも助かるようにと思って全身をもってかばった。そしてその時にですね、
「息子よ、お父さんは死んでも、生き残ったらお前が忘れちゃいけないことがある。それは大宣教命令だ。大宣教命令の遂行を決して忘れるなよ」といったのです。息子の名前は「法路ポウロ」といいます。その息子も、高校2年生の今年の夏、「わたしは神様の前に献身する」と主の愛に応えて恵みの座に出ました。その献身の動機になったのは、わたしがロンドンに行きまして体験しました2つの恵みです。1つは、長島先生、本田先生とご一緒にロンドン郊外のゴッドフレー・バックストン先生のお家をお訪ねした時のバックストン師のお言葉です。「わたしは日本の松江の赤山で生まれました」「わたしは日本の松江の赤山で生まれました。わたしは日本のために祈っている」としみじみ、くり返し語られる88才の老バックストン師のことばを味わうときに大変恵まれました。

神様の御摂理、日本の松江の赤山に生まれたいから生まれたんじゃない、そこに神様がゆえあって、深い神の知恵と神の御愛のもとに、神様の願い、神様の目的を持って、1人の子が誕生したのです。それが非常に心に残りました。それを青年全国大会の合い間に、牧師の子供達が集まった際にお話しました。「あなた達、牧師の家に生まれて感謝しているかどうかわたしは知らないけどね、これは感謝なことなんですよ。バックストン先生はこう言ってたよ。日本の松江の赤山に生まれたいから生まれたんじゃない。しかしそれは神様の深い知恵と愛にもとづいて、神様の目的を持って生まれてるんだ。これは神様の摂理なんだ。そのことを感謝しよう」と。もう1つは、ロンドンで長島先生が日本伝道隊の集会においてメッセージなさいましたが、その中にお証しがありました。それは先生が戦後、岡山へ復員なさって、開拓伝道されている時の話です。終戦直後の事ゆえ、開拓伝道と共に御家庭のため、市役所にお勤めをされていた時ですね、その時、先生はフルタイムの伝道者として召されている、しかしご自分はフルタイム・福音宣教に携わることができない。もしフルタイムの伝道者として立てば、子供達に今迄以上に物質的にも、色々な面でも苦労をかける。大人は主のため、福音のため、喜んでお従いしたいが、2人の子供さんの事を思っては、ためらって祈り求めていたそうです。そうしていた時、主は幻をもって語って下さった。

「お前は自分の子供に十字架を負わせることでためらっているが、わたしはひとり子を十字架につけたのだよ」「主よ、わかりました」とお答えになりました。そしてその時目の前に5本の十字架が示されたそうです。まずイエス様が十字架を背負って先に歩まれ、その次に先生御自身が十字架を担ってイエス様の後について、その後には奥様が十字架を担って、その後に長男の坊やが小さい十字架を担って進んでいた。続いて次男の坊や、生まれたばかりの赤ちゃんですけどね、赤ちゃんもやはり体にあった小さい十字架を担って…。イエス様、先生、奥様、長男、次男の赤ちゃん5人が、5本の十字架を負ってカルバリーにのぼって行く姿。それを幻で示された先生は、「わかりました。わたしの心は定まりました」そして御家族みんな集めました。「わたしはひとつの決意をした!」奥様は「すでにわかっておりました」と即座に賛成されたそうです。それから今までの市役所の勤めはもうしない。伝道一本! この主の働きひとつにわたしはもう一度立ち上がる。それからまた、変わった形の苦労があろうけれども、「いいかね?」、奥様は勿論賛成。長男の坊やにきくと「ウン、いいよ」と答えた。次男の赤ちゃんは返事できないが、その子供達も1緒に十字架を担って主の道に進むことになったのです。このことが今日の先生をあらしめたわけです。先生はこの証しをロンドンの日本伝道隊の皆さんの前で、涙ながらされました。

わたしも会衆も心打たれました。わたしたちも、何か神様の恵みを与えてもらうため、また祝福があるから献身するのではない、もうすでにイエス様がわたしのために十字架にかかり、わたしの罪の一切を取って下さり、そしてそのイエス様は先立ち給う。どうしてこの世のものに心引かれますか。息子が信州で献身の決意をした。土曜日に帰って来たのですが、次の日の礼拝で証しをさせてほしいと申し出ました。大体、午後の伝道会が予定されているけれども、それじゃ、その決心であるならば証しの時間をあげようということで、息子はその晩おそくまで祈って準備して、翌朝の礼拝で涙ながら証しをしました。息子も長島先生とお子様の証しに心動かされたのです。自分は自分なりに小さい時から牧師の家に生まれて、いろいろ、人には言えない、親にも言えない、それこそ今の幻のように、子供は子供なりの十字架を担いながらついて来ていたわけですね。しかし神がひとり子を十字架につけてまで示して下さった愛がわかった時に、自分の十字架を取って行こうと決意したのです。そして今まで小さいなりに伝道者の父母と共に主の十字架を担ってきた事を、今は誇りに思うと感謝しました。

今日いかがでしょうか。あなたも上にあるものを求めていく生涯を送りませんか。そして主イエス様を愛し、お慕いし、お仕えし、いとおしみ、本当にこのお方を、「わが愛する主よ」と呼ぶような交わりの中に生きようではありませんか。イエス様はすでにわたしと共に死んで下さった。イエス様はよみがえっていて下さる。このお方を他にして、誰にわたしのナルドの香油を注ぐべきでしょうか。長くためおいた貴いナルドの香油を、このわたしを愛して、わたしのために死んで下さった、そして今、生きていて下さるお方に注ごうじゃないですか。お祈りいたしましょう。

天のお父様、御言を感謝します。かくまで主を愛するは今日初めてのここちして…。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」こんなにまでして愛していただいて、もったいない思いです。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として、きっぱりとささげなさい。これがあなたがたのなすべき礼拝である」もう一度、天を思う生涯、上にあるものを求める生き方をこのところからさせていただきます。わたしたちの命は今、キリストと共に神の中に隠されていますが、やがて再臨の朝、まばゆいばかりの栄光のうちに命なるキリストが現われ、そして我等の命もまた、共に現わされることを感謝いたします。負うた十字架を冠にかえて報いられるそのこともうれしい限りでございます。どうか一日一日主と共に歩ませて下さい。「地上のものに心引かれてはならない」、もう引かれません。心はあなたにセットされています。感謝します。我らの主の御名を通し、兄弟姉妹の内にある熱き祈りに合わせてこのお祈りを御前におささげいたします。アーメン

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