〔16〕 彼に信頼する者は ( 7.14/2006 )
「彼に信頼する者は、失望させられることがない」
(ローマ人への手紙9章33節)

希望の生活希望という言葉には明るさがあり、失望という言葉には暗さがあります。希望を持つ人には、目の輝きがあり、失望した人は、肩を落として言葉少ないものです。ですから、希望のある人は、どんな困難の中にあったとしても、それに耐えることができ、生活には張りがあり、生き生きとしているのです。「希望は失望に終わることがありません」(ローマ5・5)この「失望に終わることがありません」という御言葉は、恥をかかない、うろたえない、という意味を持った言葉です。ですから、希望のある生活と、失望の生活とは、天国と地獄の違いがあるようなものです。

ダンテの「神曲」では、地獄の入り口に「これより入る者は、いっさいの望みを捨てよ」と書かれています。ダンテは、希望のないところ、すなわち地獄と思ったのでしょう。私たちが絶対失望させられない、うろたえない、恥をかくことがない生活をすることができれば、すごいですね。私たちには弱さがあります。小さな出来事に一喜一憂する。順風満帆のときは、得意になり、饒舌になり、隣の人が愚かに見えてくる。しかし、暗いニュースを耳にすれば、木の葉のようにすぐに揺れ、思い煩いをして、落ち込んでしまうものです。

御言葉に「彼に信頼する者は、失望させられることがない」とあります。彼とはどなたのことでしょう。そうです、イエス・キリストさまのことです。この御言葉は同じくローマ10・11に記され、またUペテロ2・6にも記されています。ですから、失望しない、希望のある生活は、イエス・キリストを信頼するところから始まるのです。それではなぜ、イエス・キリストを信頼すると失望しなくなるのでしょうか。また、失望させられないのでしょうか。裏切らないお方

イエス・キリストは、決して私たちの信頼を裏切らないのです。イエス・キリストは、こうおおせられました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハネ6・37)

すなわちイエス・キリストは、どんな人をも招いていてくださっているのです。私だけは無理だろうと思い込んでいる人にも、「わたしのところに来なさい」と招いてくださり、失望してへなへなと座り込んでしまっている人にも呼びかけていてくださるのです。イエス・キリストは、「主よ!」と呼び求める人の叫びを無視したり、拒絶したり、門前払いをするお方ではありません。そして、イエス・キリストはお約束どおり、私たちに「休み」を与えてくださるのです。休みとは、「救い」のことです。

人間は罪人です。長い長い間、神さまを見失い、神さまにそむき、神さまを心と生活の中から放り出した生き方をしてきました。信じ従うべき真の神さまに対して拒否の態度をとりつつも、1方では、自家製の神々を造っては拝み、心は暗く、空虚であり、道徳的には情欲の欲するままで、自堕落の生活をしていました。そのような罪人である私たちに、イエス・キリストはお声をかけてくださっているのです。「わたしを信頼する者は、失望から解放される」と言われているのです。ですから、私たち人間の救いに関しては、失望しなくていいのです。

主イエス・キリストは、旧約聖書に預言されていたとおり、救い主としてこの世界においでくださり、十字架の上にかかり、血を流し、命を捨てられました。また3日目に死より復活されました。この揺るがすことも、否定することもできない歴史的出来事が、私たち人間の救いに大いに関わりがあるのです。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Uペテロ2・22-25)

キリストが私たちのこの世界においでくださったとき、世界に希望の光が差し込んできました。もう罪と死と敗北の人生は終わりました。主のお弟子であったマタイは、キリストのこの世界へのご来臨を旧約聖書の預言の成就として、次のように語りました。「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った」(マタイ4・16)失望に終わらない主を信頼するとき、主はその人を変化させ、成長させてくださいます。だから、失望に終わらないのです。

歴史家ヘロドトスの言葉に、「この世でなにが悲しいといって、自分がいろいろのことを知りながら、無力のためにそれをどうにもできぬことほど悲しいことはない」というのがあります。自分の信念、自分の哲学、自分の受けた教育と教養、努力と修養でもどうにもならないことがあります。しかし「主に信頼する者は、失望に終わることがない」のです。イエス・キリストを信じる者は、いつまでも罪と汚れと敗北の日々を送る必要なありません。なぜなら、キリストを信じるすべての者は、新しく造られたものであり、古いものは過ぎ去り、すべてのものが新しくなっているからです。そして、信じるもののうちには、永遠の命があり、その人のうちに力強く聖霊は働いてくださるのです。ですから、信じる者は、自己の弱さや、無力さに悲しむのでなく、聖書によって力を与えられ心清められて前進するのです。苦難に遭遇したり、試練の炉の中に入れられたからといって、人を呪い、神に対して不信仰の言葉を口にすることはしないのです。

〈パウロの場合〉
使徒パウロは、ピリピのクリスチャンにローマの獄中より手紙を書きました。劣悪な環境、肉体的苦痛、それに加えて、同信の兄弟からの悪意ある仕打ちによる精神的苦痛がありました。しかし彼の手紙は、「私は喜んでいます。あなたがたも喜びなさい」とくり返しくり返し言っています。しかも、使徒パウロの手には鉄の鎖、足にも鉄の枷かせが食い込んでいました。そのような中で信仰の宣言をしています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4・13)この言葉、狂気でしょうか。この言葉は信仰者の大胆な信仰告白です。クリスチャンは、日々成長していくものです。いつまでも幼児のままでいるわけではありません。この瞬間も、聖霊なる神さまは、あなたのうちにいてくださり、力強く働いています。神さまを信じるときに、あなたが考えているよりはるかに大きいことが起こるのです。そしていまも起こりつつあるのです。

〈ロバート・シュラー博士の場合〉
ガラス張りの大聖堂で有名なロバート・シュラー博士が、まだ大学生のときでした。彼の父の農場と自宅が大竜巻に襲われたときのことを彼は記しています。「大竜巻は去っていった。空気は死んだように静かであったが、危険は去った。静かに雨が降り始めた。暗い空の端からはあたかも天が生々しい傷跡に痛みを和らげる薬を注いでいるように、静かな慰めの雨が降り注いでいた。われわれは、もう家の近くのところまで帰ることができた。『神さま、われわれの家は無事でしょうか』。われわれは丘の上に着いた。見た。何もなかった。全部なくなってしまっていた。たった30分前に、そこに新しくペンキを塗った9つの建物があったのに、いまは何もなかった。生命があった場所に、死の静けさがあった。みんな死んでしまった。われわれは目がくらんだ。われわれの頭の中が動揺した。黒い地上にくっきり浮かぶ白い土台だけが残っていた。残骸もなかった。すべてが空に吸い上げられ、どこかに運ばれてしまったのだ。私の愛馬が5メートルばかりの角材に腹を突き刺されて死んでいた。私の父はもう60歳を過ぎており、この農場を成功させるまで26年間も一生懸命に働いてきたのだ。借金もほぼ払い終わり、抵当が解除される寸前であった。これで債権者からこの土地を手に入れるチャンスをすべて失ってしまった。私は父を見た。白髪の働き過ぎてやせてしまった血の気のない手をした父は、車のハンドルを絶望的に握り、恐怖の目を見開きながらフロントシートに座っていた。やがて父は外に出ていった。自宅の壁に掛けていた小さな石膏の形板を見つけた。『イエスに期待し続けなさい』と書かれたものが、『…期待し続けなさい』としか読めなかった。それを車に持ち帰った。期待し続けなさい。期待し続けなさい。これこそは、神の父に対するメッセージであった。いま去ってはいけない。売り払ってはならない。突き進み、踏みとどまりなさい。そして父はそれをやってのけた!人々は、私の父は終わりだろうと考えたが、彼はやってのけた。彼はあきらめなかったために終わりとならなかったのである。彼は高いところにある神の力を信じたのである。2週間後、近くの町でわれわれは解体中の古い家を見つけた。その家の一部はまだ残っており50ドルで売りに出されていた。そこでわれわれはその残っている部分を買い、それを1つひとつ細かく分解した。どんな釘でもむだにしなかった。そしてこれらの部品でいままでの農場に新しい小さな家を建てた。9つの農場が大竜巻で破壊されてしまったが、私の父は完全に破壊された農場を再建した唯一の農夫であった。5年以内に抵当は解除されたのであった」みもとへ主を信頼するとき、主は物事に変化を与えてくださるのです。

神さまは、信頼するに足るお方です。神さまが、神さまの子供たちに対して抱いているプランは、「災いではなく祝福を与える計画で、ばら色の将来を希望」なのです。神さまは、神さまの子供になにかにつけご自身のみもとに来ることを勧めておられるのです。激しいクリスチャンに対する迫害の中、彼らに慰めと励ましのメッセージを使徒は送りました。その内容は、私たちには主イエスさまがいらっしゃる、その主イエスさまは、私たちの弱さや試練を熟知しておられ、主イエスさまご自身も苦難をお受けになられたお方だということです。だから、この主イエスさまのみもとに、神さまのみもとに行きましょう。そこに行くのに遠慮はいりません。手土産もいりません。主イエスさまの愛のお招きの言葉を信じていけばいいのです。それは、祈り場にひざまずくことです。そこは裁きの場ではありません。その場は「恵みの座」であると聖書は教えています。祈っているとき、主は環境を、人の心を、事業を、病を変えてくださるのです。人間的に走り回っても、どうにもならないこともあります。人にお願いしに行っても、小言こそ言われても、何の力をも得られないこともあります。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵をいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4・16)

国際キャンパス・クルセード総裁のビル・ブライト博士は、彼の著『祈るには』の冒頭にこう記しています。「あなたがひざまずくとき、神があなたを国家や人々の生き方を変えようとして、あなたを用いようとしていることを考えたことがありますか」と。使徒の働きには、祈りのあるところに次々と大きな奇跡が起きています。無名で無学なキリストの弟子たちに対する迫害は激しいものでした。しかし、そのとき彼らのとった態度は、デモでもなければ、武装蜂起でもありません。権力者、実力者と言われる人にコネを使ってとりなしをお願いするということでもありませんでした。使徒たちのとった方法は祈りでした。そして勝利を得たのです。「天と地と海とその中のすべてのものとの造りぬしなる主よ」(使徒4・24、口語訳)

主に信頼していまから24年前のことです。開拓伝道に遣わされ、3年で自給教会になるようにとの教団の命令を受けていました。3年目に入り、礼拝に集う人がようやく30人そこそこになってきました。経済的にも自給への兆しが見えてきました。そのとき、会堂建設についての話が持ち上がり、「いまお借りしている庭にバラックでもいいから会堂を建てさせてもらってはどうか。そのために、私が初穂として、30万円捧げましょう」という方がでてこられました。会堂建設は自給後のことであり、借地借家で伝道している者には、まだ先の先だと思っていました。バラックのような礼拝堂だとはいえ、建造物を建てると、地上権というものが生じます。貸し主である方のところに建築のお願いに行きました。「考えておきましょう」との返事でした。私たちは祈りに祈りました。貸し主は、その間弁護士さんに相談され、しばらくしての返事は「先生の意に添うことはできません」でした。ノーという返事は、聞きたくありませんでした。イエスという返事を聞くためにいままで祈りに祈ってきたのでした。もう一度座りなおして祈りました。またお願いしました。それから1月後、「どうぞお建てください」という返事をいただきました。2・5間×7間のプレハブ造りの礼拝堂は完成し、献堂式の日を迎えました。大家さんは、紅白のおまんじゅうを持ってお祝にかけつけてくださいました。

その建物はいまはありません。しかし、祈りに応えてくださる愛と真実な生ける神に対する信仰は、私たちの心に深くとどまっています。現在の私たちの教会は、223坪の敷地に300人の礼拝ができる礼拝堂があり、牧師館64坪、駐車場230坪があり、宣教教育訓練センター建設用地として2563坪が用意されています。そしていま伝道所が早良(さわら)区に建設中です。

神さまは、神さまに信頼する者に対して真実をもって応答してくださいます。主に信頼する者は、決して失望させられることはありません。どんな状況にあっても、主イエスさまを信頼し申し上げ、御言葉にお従いしていきましょう。

TOP