〔17〕 火の城壁 ( 7.14/2006 )
「主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる」
ゼカリヤ書2章
この朝のメッセージの中心聖句は、ゼカリヤ書2章5節です。「『主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる』と」。このゼカリヤという預言者は、イスラエルの民に、すばらしい約束のことばを語っています。すなわち、主が、「わたしはその周囲で火の城壁となります。そしてあなたのその中にわたしは住み込みます」と、こう言われるというわけです。時は紀元前520年です。イスラエルの民が不信仰のために、神に背いたがために、バビロニア帝国によって滅ぼされました。そして民は捕囚の身となりました。バビロンにおいて悲しみ苦しみもだえ、彼は火のような炉の中に投げ込まれて、その民はそこで神の御名を呼び求め、神様にわが祖国、そのユダヤの地に帰る日を、1日も早かれと祈ったのです。

時満ちて、神様はこのユダヤの民を解放してくださった。そのことが喜びをもって記されているのがエズラ書ですね。エズラ書を見ますと、クロス王が主の霊感を受けて、主の恵みによって解放を宣言するのです。彼らは喜び感動して帰ってきました。ちょうど、エジプトの地においてイスラエルの民が悩み苦しみ、うめき、その叫びが天に達した時に、解放者であるところのモーセが起こされて、そのエジプトの苦しみの中から解放しましたように。神様はその服役の時は終わった、ということでイスラエルの民を解放され、帰ってきたわけですね。その彼らは何をしたのか。彼らはまず、神様に感謝をすると同時に、神殿の再建にかかったわけです。彼らは喜びをもって帰ってきましたその所に、そして破壊されているその神殿の跡に帰ってきて、彼らは涙を流し、「また帰ってきました、帰ってくることができました、今一度、壊されたところの神殿を再建いたします」と、新たなる決意をもって立ち上がりました。困難はありました。しかし彼らの内にあるところの喜びのゆえに、その神殿の基礎は置かれるわけです。帰って2年の時が過ぎていました。基礎がすえられた時に、どういうような光景であったか、それがこのように記されております。

さてエルサレムの神の宮に帰った次の年の2月に、シャルテルの子ゼルバベルとヨザダクの子エシュアはその兄弟である他の祭司、レビびとおよび捕囚からエルサレムに帰って来たすべての人々と共に工事を始め、20歳以上のレビびとを立てて、主の宮の工事を監督させた。そこでユダの子孫であるエシュアとその子らおよびその兄弟、カデミエルとその子らは共に立って、神の宮で工事をなすものを監督した。ヘナダデの子らおよびレビびとの子らと、その兄弟たちもまた1緒であった。こうして建築者が主の宮の基礎をすえた時、祭司たちは礼服をつけてラッパをとり、アサフの子らであるレビびとはシンバルをとり、イスラエルの王ダビデの指令に従って主をさんびした。彼らは互に歌いあって主をほめ、かつ感謝し、 「主はめぐみ深く、そのいつくしみはとこしえにイスラエルに絶えることがない」と言った。そして民はみな主をさんびする時、大声をあげて叫んだ。主の宮の基礎がすえられたからである。 (エズラ記3章8―11節)

ここに大きな喜び、賛美がうずまいたのです。「主はめぐみ深く、そのいつくしみはとこしえにイスラエルに絶えることがない」。実感だったわけですね。このような歌だからこのように歌わなくてはならない、というのではなく、彼らの心の中には限りない、心からの主への賛美、感謝が火の城壁〔 288 〕あったわけです。3章において、神殿の基礎を置いた時に、喜び、賛美、感謝、あるものは声を上げて叫び、またあるものは涙を流して泣いたということです。4章にいたりますと、こう書かれております。そこでその地の民はユダの民の手を弱らせて、その建築を妨げ、その企てを破るために役人を買収して彼らに敵せしめ、ペルシャ王クロスの代からペルシャ王ダリヨスの治世にまで及んだ。(エズラ記4章4節)

続いて23節にはアルタシャスタ王の手紙の写しがレホムおよび書記官シムシャイとその同僚の前に読み上げられたので、彼らは急いでエルサレムのユダヤ人のもとにおもむき、腕力と権力とをもって彼らをやめさせた。それでエルサレムにある神の宮の工事は中止された。すなわちペルシャ王ダリヨスの治世の2年まで中止された。 (エズラ記4章23―24節)

神殿の復興、再建をやったわけであり、その基礎が置かれて喜び感謝したわけですが、その後、工事はストップしてしまった。実に工事再開までの期間は何と、16年という年月が流れていってしまったわけです。彼らの感動、彼らの喜びはいつのまにか消え去ってしまったのです。理由はいくつもあろうかと思いますが、その1つとして考えられるのは、周りの人々の反対でした。権力と腕力をもってその工事を中断させた。こういうことが起きた時に、彼らは工事を、あの感動をもって再建しようとした彼らではありましたけれども、権力と腕力の前に彼らは、神殿建設は挫折してしまった。その時に立てられた預言者が、今日お開きしている、ゼカリヤという預言者でした。またハガイという預言者でした。ですからゼカリヤのメッセージ、ハガイのメッセージは、中断してしまっているところのその神殿を再建せよというのが、主からの彼らのメッセージであったわけです。

そして、その神殿再建のメッセージを語られた時に、ただやりなさい、やりなさいと言われただけでなく、主はゼカリヤを通して、「わたしが火の城壁となってあなたを守る」と言われた。そして「わたしはその中にあって栄光となる」と言われた。すなわち、「神殿の建設をしなさい、頑張れ頑張れ」というだけではなくて、「わたし自らが」、権力腕力というものがありましょうけれども、「わたし自身があなた方の周りにあって火の垣となる、火の城壁となる」。すごいお約束ではないでしょうか、皆さん。神様が、神様のご用を、神様が与えられたところの任務を、遂行するために、神様は自らがあなた方をガードします、プロテクトします。こう言われるわけですね。列王紀下6章を見ますと、スリヤの大軍が預言者エリシャを捕まえにきました。そして大軍を送り込んだわけです。戦車を、騎馬を、歩兵を、実におびただしいところの軍隊を送り込んできて、神の人エリシャを捕らえようとしました。夜の間に近づいてきた、そしてエリシャをとり囲んでいる大軍。エリシャのしもべが、朝、目をさましたら、敵軍がわあーっと浜の真砂のようにですね、迫ってきている。もうしもべはびっくりして、これはどうなるんだろうかと思った。エリシャは、「どうぞこのしもべの目を開いてください。主よ、どうぞこのしもべの目を開いてください」。エリシャのしもべが見ているのは、そのスリヤの大軍でした。そのスリヤの戦車でした。戦車だけではない、その軍隊、そして剣や槍やそういうものをピカピカ光らせながら、ずーっと迫ってきている大軍でした。しかしエリシャが祈った時に、しもべの目が開かれた。なるほどスリヤの大軍は、まさに大軍であるけれども、それにもまさって火の戦車、火の車が、まさに火の、それこそ火の剣を持っているところの神の軍隊がまたエリシャの周りを囲んでいる。大丈夫だ。神様は、神殿を再建せよとご命令を与え、励ましを与えるだけではなくて、「わたし自身が」。英訳聖書を見ておりますと、ここにも、「わたし自身が」、それこそ守るというだけでない、すなわちここに書かれている主のお約束を見るならば、このわたしが体を張って守ってあげます、という、主の大きな、私たちへの、体を張ってという言葉を私たちは使いますけれども、そういうような主の熱意を思うのですね。

このイスラエルの民が、神殿の基礎を築いてから16年。長いですね。この16年は、どんな状況になったのでしょうか。同じような時期に立てられた預言者、ハガイのところを見ますと、そのへんの腕力権力ということよりは、むしろ内側に問題がある。ハガイはこの神殿建築の挫折のことを、内側からレポートしておりますね。 ハガイ書の1章にダリヨス王の2年6月、その月の1日に、主の言葉が預言者ハガイによって、シャルテルの子、ユダの総督ゼルバベル、およびヨザダクの子、大祭司ヨシュアに臨んだ、「万軍の主はこう言われる、この民は、主の家を再び建てる時は、まだこないと言っている」。そこで、主の言葉はまた預言者ハガイに臨んだ、「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃金を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて、主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる」。(ハガイ書1章1―8節)

この16年の間の神殿再建がストップした時の姿は、黙示録に「あなたは初めの愛を失った、捨てた」というお言葉がありますが、まさにそれではなかろうかと思うのですね。クリスチャンの場合でも、そういうことをよく見るわけです。イエス様に救われた、イエス様に救っていただいた、あの罪とあの挫折から、あの悩みから、あの苦しみから、イエス・キリスト様の十字架の血の、その赦しのゆえに、私もまったく変わった。その時に、私たちが「神様、献げます。あれをします、あれもさせてください、こういうこともいたします」。感動ですね。

私も救われて間もない時に、ある聖会に導かれまして出席したことがあります。そして救われて間もないことでありますから、聞くメッセージ、もうどのメッセージも恵まれて、心の中が波立つような、まあ喜びでいっぱいでした。ですから、民宿しておりましたけれども、そのお家に帰りましてお話していた時にですね、私を連れていってくださった母教会の先生が、「横田さん、あのね、あんまり大きい声で喜ぶのは、いい加減にしておきなさい。迷惑を受けますよ」。こう言われたわけです。そう言われますとですね、救われて間もない、そして喜びいっぱいの私は、「たとい先生といえども、私の喜びを押さえることはできません」。何かですねえ、ちょっとピント外れてんですけれども、そういうように言ったことを忘れられません。

救われた時っていうのはすごいですねえ。それこそ右足をあげてハレルヤ、左足あげてグローリーと言うといわれましたけれども、本当にですね、喜び。その時ですよ、私が献身のメッセージを聞いてですね、立ち上がったのもそのような時。ですから、救われて間もない人は、私は伝道者になる、私はもうそれこそ十字架の証し人になる、まあそういうようなことになりますね。おそらく、形は違うんですけれども、バビロンから解放されたイスラエルの民たちも、もう喜んで喜んで帰ってきて、エルサレムにその国へ帰った時に、その所に地べたになって、その大地に接吻したんじゃないだろうかと思うんですね。帰ってきました。しかし、あの時の感動はどこいったのか、あの時の決意はどうなったのか。あの時、主の御前に約束したことはどうなったのか。ガラテヤの手紙の中にも、パウロ先生が言っておりますね。「あの時の感動、あの時の決意は、あの時の私に対する愛は、今はどうなったのか」。

これは、かつての、すなわち紀元前520年代の、選民ユダヤ人に対するメッセージではなくて、今日の私に対する、私たちに対するメッセージではないでしょうか。「初めの愛を離れた」。ハガイ書の1章を読んでみました時に、ここにイスラエルの人は外側からの妨害、確かにあったけれども、彼ら自身の内側がもっと問題でした。まず、何が問題であるかと言いますと、神殿よりは自分の家、すなわち、「主の家は荒れ果てているのに、あなたがたは自ら板で張った家に住んでいるではないか」。第2の点は、「あなたがたは自分のことで忙しくしている」。もう神様のこと、神殿のこと、そして、かつてのあの感動のことよりは、自分のことで忙しい、もう自分のことで精一杯、時間があったら、いや、ゆとりがあったら、いや、そのうちに、というように、彼らの心、彼らの霊的状況は、優先順位が狂ってしまった。

主の家より自分の家を建てよう。「主の家を建てよ」、と言われるメッセージに対して、いやそれよりは、まず自分が雨露をしのぐところの家を建てようじゃないか、神殿は荒れたままであるけれども、まず私たちの家を建てましょう。そして自分のことで忙しくしている。「これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている」(9節)。あの時の使命感、あの時の感動、あの時の犠牲を払ってでも、何としても主の家の復興をとスタートしたのに、それはどうなったのか。

私たちの教会の1人のメンバーですけれど、若い時に導かれた。しかし、この兄弟はガンで召されたわけです。しかし救われて感動していた時には、先生、あれをします、これをします。と言っていましたけれども、そのうちに、自分も事業を起こし、教会へ来る時間がなくなり、それだけでなく、世の中にどんどん、どんどん行ってしまった。私が訪問しましたら、「先生、50歳になってから、私は教会へ行きますから。それまでは私がやっているこの仕事、何とかやらなくちゃならんから、まあそれまでは待ってください」。50歳になりました。「50歳になりましたよ」。50歳になっても来ない。「いやあ、今度はね、今こういう事でありますから」。こういうようなことでした。来れない。そのうちにガンになった。「ガンが治ったら来ます」。とうとう来れなかったですね。私たちもこうなったらああなったら、このことが出来あがったら、こんな問題が解決したら、これが、これが。「あなたがたは主の家が荒れ果てているのに、自分のことだけでいっぱいである、忙しくしている」。あなたの命というものは有限です。私たちの命は有限です。今という時を神様のために献げなかったら、いつ献げますか。

第3番目のこと、すなわち、初めの愛を失っているところのイスラエルの民はこうでした。自分の家、自分のこと、そしてその次は何であったかと言いますと、神様の願い、神様のプラン、というよりは自分の欲望が優先するようになった。ですから、「あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃金を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである」。彼らは得たい、働く、食べる、まく、そういうようにして自分の欲望を、何とかして満たしたいと願ってがんばるわけでありますけれど、いいえ、方向が間違っている。やり方が間違っている。求めるところが間違っている。腕力と権力によって神殿の再建を妨げられたと、外的な条件、外的な状況はエズラ書において記されておりますけれども、外側の問題もさることながら、もっと恐ろしいことは、内的な状況でした。そのような民に、主はあわれみ深く、神殿を再建せよ、今一度使命に立つこと。初めの愛を失ってしまっているところの民に対する、神様の方からのラブコールです。もう一度、「あなたよ、神殿をもう一度建てるために立ち上がらないか」と言われ、そして立ち上がりなさい、神殿を再建せよと言われるだけではなくて、そのご命令、そういうような任務をもう一度与えてくださるだけではなくて、そこに「わたしはあなたの周りにあっては火の城壁となりましょう、そしてわたしはあなたの中に住み込みます」。栄光の主が入ってくださる、と言われている。臨在の主、内住の主、周りにあって火の垣となり、内にあっては栄光となる。共にいます、それだけではない、内にあって栄光となってくださる。

聖書を見ておりますと、主が「わたしはあなたの周りにあっては火の城壁となり、あなたの内にあって栄光となる」と言われた、このような臨在、このような内住の栄光と勝利は、聖書を貫いて、3つのことが言われているように思います。すなわち、主のご臨在というものは主が任命をお与えになられた時に、いつも任命と共に、そのお仕事と共に、主はご臨在をお約束されている。エジプトのパロ王のようにノルマだけは決まっていて、そして材料も与えないで、れんがを作れ、焼きなさいと言ってですね、むちで主は私たちを追い立てるお方ではありません。「神殿を再建しなさい」と言われると同時に、また「わたしがあなたと一緒に、周りにあって火の垣となるよう、そしてわたしはあなたの内にあっては栄光となりますよ。わたしはあなたを守ります」。これがいつも主の臨在の恵みですね。任命を与え、それだけではない、いつも任命あるいは使命、その任務と同時に、主の臨在がセットになって与えられています。

有名な大宣教命令だと言われている、あのマタイによる福音書の28章の18―20節に「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。弟子たちひとり、あなたたちだけでがんばり、さあ行きなさい、と言うだけじゃない、わたしも一緒だ。

モーセの場合でもそうじゃありませんか。ミデアンの野で羊を飼っていた。もうエジプトのことは忘れたい、忘れておりますというような意味で、彼は与えられた羊飼いの仕事をしておりました。しかし、彼に主は現れて、柴は燃えているけれどもその柴はなくならない、こんな不思議な物を見たことがない、彼は近づきました。見てみました。「モーセよ、モーセよ、ここは聖なる地だ、あなたの泥ぐつを脱ぎなさい」。そしてモーセに言われたのは、「わたしの民の嘆きや叫びやうめきがこの天にまで達した、今あなたをもう一度わが民を解放するためにエジプトへ遣わす」と言われた。「いいえ、こんな私がどうしてできましょうか、私は口下手な者ですよ、そんなことはできません」。しかし主が言われました、「わたしがあなたと共に行く。これがわたしがあなたを遣わす、わたしのしるしだ」。バッジではない、何か別な目に見えるものじゃない、「わたし自身が一緒に行く」と言われた。それだけではない、後ほどもまた主は約束されました。不信仰なつぶやきやすい、反逆の民である、モーセをさえ撃とうとするようなその民に対して、「わたし自身が一緒に行く、そしてあなたに安息を与える」と。

だから、今、皆さんはこの山を下って行かれるわけでありましょうが、あなたお1人で行くところではない、あなたひとりで行ったら危険です。主、遣わしてくださる主が「わたし自身があなたと一緒に行く。わたしが世の終りまでいつまでも行く」。ですから、このゼカリヤを通してイスラエルの民に語られた約束は、また私たちに主から与えられた約束なのです。それぞれ私たちが神様からCalling(コーリング)、神様からの召し、神様からいただいている使命、あるいは任務というものを持っているわけですが、その任務の遂行のために、主は「わたしが一緒に行く」と言われている。

第2の点ですが、このご臨在、内住の主が現される時は、いつもそれは任務の遂行の時ですね。使徒行伝の18章にシラスとテモテが、マケドニヤから下ってきてからは、パウロは御言を伝えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかしした。しかし、彼らがこれに反抗してののしり続けたので、パウロは自分の上着を振りはらって、彼らに言った、「あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く」。こう言って、彼はそこを去り、テテオ・ユストという神を敬う人の家に行った。その家は会堂と隣り合っていた。会堂司クリスポは、その家族一同と共に主を信じた。また多くのコリント人も、パウロの話を聞いて信じ、ぞくぞくとバプテスマを受けた。すると、ある夜、幻のうちに主がパウロに言われた、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」。パウロは1年6か月の間ここに腰をすえて、神の言を彼らの間に教えつづけた。(使徒行伝18章5―11節)

ここに、主のご臨在が現されているわけです。パウロは、シラスとテモテがマケドニヤからコリントに来てからは、もう彼はフルタイムで宣教に、伝道にあたることができた。ところが、ユダヤ人の強力な妨害があった。そしてただ単なる妨げだけでなく、積極的に反抗して、パウロにののしりの言葉を投げかける。この伝道者パウロも、この時上着を振り払って彼らに言った、「あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く」。彼はもうこういうところで伝道はできん。こう言ったわけですね。私のメッセージを聞かないのなら、それは滅びだよ。それはあなたの責任だ、もうわたしは別な所へ行く。場所を変えたいって言ったわけです。変えますって言った。

その時です。夜、幻のうちに、もうここはわたしはだめだ、こういうような物分かりの悪い人たちを相手に、わたしはもう伝道しません。と彼ら自身に宣言したパウロでありますが、その夜、主がねんごろに現れて、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。この町には、わたしの民が大ぜいいる。あなたを襲って、危害を加えるようなことはない」。主の任務を行なおうとしている人に、主は自らを現してくださる。任務を授かる時に、主がわたしが一緒に行くと言われるだけではない、自分の方ではもう愛想をつかして、もうここはだめだ、わたしは別な所に行きますと思った彼ではありましたけれども、そういうような彼に自らを現して、わたしが一緒に行く、あなたは恐れているかもしれない。その心の深いところにおいて、あるいは怯えているかもしれないけれども、あなたを襲って危害を加えるものはおりません。この町にはあなたの目には見えないけれども、わたしの民がこの町には大ぜいいるんだ、わたしがあなたと共にいる。というのです。

続いて御言はこう言っています。「パウロは1年6ケ月の間ここに腰をすえて、神の言を彼らの間に教えつづけた」。1年6ケ月、皆さん、いかがでしょうか。1年6か月は長いと思いますか、短いと思いますか。1年6け月の伝道っていうのは、「先生、1年6か月でもう転任ですか、転勤ですか、まだやりかけたばかりじゃありませんか」。これが私たち、現代の私たちの方に返ってくる言葉だと思うんですね。ところが、使徒行伝のこの言葉に、「1年6ケ月腰をすえて」、これは時間、タイムの客観的に何時間何分という意味じゃない、心の問題、主観の問題です。パウロにとって1年半というのは、移りたい、あなたがたはもう知らないと言った、あなたがたはもういいと言った彼にとって、1年6ケ月、まさに腰を落ち着けた伝道だったでしょう。なぜ移りたい、移ろうと思った彼に、1年6ケ月、腰をすえた伝道をさせることができたのか。それは主のご臨在だったんですね。

最後ですが、このような主の、主から与えられた務め、主からなせよと言われた務め、任務を遂行する時に、主は自らを現してくださるだけではない、また自分たちが困難の前に試練のなかに、ご自身はご自身の民に自らを現してくださるんですね。マタイによる福音書14章で、イエス様は弟子たちを舟に乗せられました。パンの奇跡でみんなが喜んでいる、もう「イエス様ありがとう、イエス様、そしてお手伝いをしたところのイエス様のお弟子さんたち、ありがとう」、と言っているその賛美の言葉、賛辞の中で、弟子たちは長くおりたい、1分でも2分でも長くおりたいという気持ちだったでしょうけれども、イエス様はしいて舟に乗らせて、向う岸にゆかせようとされた。その時、嵐になったんですね。あのガリラヤの湖で生きてきた、海の男、漁師、彼らは今までも何度も嵐にあったことがあるけれども、私の生涯これで終りだ、と思った。そういうような嵐にあった時です。弟子たちはもう終りだと、まさに絶望、自分の生命はこれで終り、自分の人生は、この嵐で、このガリラヤの湖で私の生涯は閉じると思った。その時に、主がおいでくださった。そして言われた、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」。わたしである。εγω ειμι(エゴーエイミ)。すなわち、わたしが臨在しているじゃないか。

私はこういうような、この御言を通して、大変なところを通ったことがあります。まさにこのガリラヤの湖で、これで私の人生が終りかと思うようなその時、心の湖である私の心の中が、わーっとなる。私もこれで終りかなと思うようなことがありました。その時に私もこんなことではだめだと思って、自分自身も、御言のあの言葉、この言葉というように思い起こして、「神もし我らの味方であるなら、だれが我らに敵し得ようか」とかですね、「わたしはあなたを去らず、捨てない」とかいう言葉を自分の方から思い出して、一生懸命思い起して、となえているような、自分の心の状況でした。しかし、ますます自分の心は落ち込んでいく。深みにまで落ち込むような思いでした。

まさにその時、自分が覚えている御言を、自分は思い起そうとしている、そういうような働きではなく、主は近づいて、「恐れることはない。しっかりするのだ、恐れることはない、わたしがあなたと共にいる、あなたと共にいるじゃないですか。何を怯えているんですか、何が不安なんですか。わたしがあなたと今日ここにいる」。何ものにもまさる、その確かさをもって、御言の確かさをもってご自身を現してくださいました。お話を結びたいと思います。

イスラエルの民に、ゼカリヤを通して、ハガイを通して語られた「神殿を再建せよ、工事に立ち上がれ、いつまで不信仰と、不安と、恐怖の中でわがままな行動を続けているのか。今、立ち上がるべき時ではないか、主に帰れ、そうするならばわたしもあなたに帰る、そしてわたしはあなたの周りにあっては火の垣となり、あなたの内にあっては栄光となる」。この朝、主のお言葉として、ゼカリヤ2章5節、私たちも主の語りかけ、この言葉を心のうちにいただいて、今祈りましょう。(祈り)

あわれみ深い、われらの主なる神様、御言を感謝します。離たざる愛とありますが、「わたしは限りのない愛をもって、あなたを愛している、このゆえにわたしは絶えずあなたを恵む、わたしはあなたに対して真実を尽くしてきた」。たとい我らは不真実であっても、あなた様はご真実なお方です。あなた様のご真実、御言のお約束が、今、わたしを励まし、もう一度不信仰から立ち上がらせ、神の家よりは自分の家、神のことよりは自分のこと、神のプランよりわがプラン、こういうような私たちにもう一度、まず神の国と神の義とを求めよ、神第一で行けよ、と。かつて聞いたお言葉ではありますけれども、もう一度、この朝、あなた様からお聞きすることができ、いただくことができ、小さいながらも十字架の御血によって赦していただき、聖霊の助けによって、立ち上がらせていただくこと、感謝いたします。

どうぞ、弱い者ではあります、重々わかっております。ですから、あなた様の励ましのお言葉、お約束のこの臨在が私たちを導いてくださることを心から感謝し、喜びます。主よ、あなた様が共にいてくださるところ、そこは天国です。あなた様が行ってくださるところ、そこは安息です。どうぞ、あなた様から離れて行くことがないように、あなた様の行くところとは違うところに進んで行くことがないように。主と共に歩む、メトセラを生みし後300年神と共に歩んだ、あのエノクのように、一歩み一歩み、主と共に歩ませてください。お願いいたします。

我らの主の尊いお名前を通してお祈り申しあげます。アーメン。

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