〔1〕 力の源泉 ( 7.13/2006 )
しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、(ピリピ人への手紙3章7、8節)

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。(エペソ人への手紙6章10節)

香登修養会も日を重ねて、きょうは最後の日となりました。神様はすばらしい御器をお立て下さいまして、わたしたちの深いところにまで、み光を与えて下さり、わたしたちは、主イエス・キリストの御血潮によってゆるされ、きよめられ、活けるキリストを内におむかえすることができました。この朝、こうして早天の恵みをいただいておりますが、恩寵の源泉は、どこから来ているのだろうか、それを確認したい。それは他の何ものでもない、イエス様の十字架からきている。

十字架の血によって、わたしたちは主のみもとに引きよせられているのです。「十字架のほか誇るところあらざれ」との御言がございますが、もう一度、十字架の血潮を讃美し、血潮のゆえに主に近づけていただくのです。それだけでなく、主がわたしたちの内に在って、生きて下さるのだということを確認したい。また感謝したいと思うのです。今、讃美いたしました聖歌722番の歌詞をごらんいただき、静かにうたいますとき、わたしたちの主は、近くいまして、わたしたちの心を、主の恵みに溶かして下さいます。すばらしい讃美ですね。今一度、この歌詞を味わいつつ、主を崇めつつ、この722番をうたいましょう。

さて、今朝の御言を開いていただきましょう。ピリピ3・2-8、特に、7節、8節をもう一度読ませていただきます。このところでパウロは「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」(8節)「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(8節)と言った。すなわち、キリスト御自身がわかってきたとき、世のすべてのものが色褪せてしまった。ただイエスさまだけで、他のもはなくなってしまった。

よくテレビで、ズーム・アップといって、大写しする場面がありますね。広い大きな舞台の一部分を大写しに撮影しますと、他に誰もいない、何もないように、視野から消えてしまうのです。イエスさまがわかってきたときに、あのことも、このことも、ここに述べられていますように、わたしの誇りとするもの、頼みとするものがないわけではないが、それらのものは、何もかも消え失せてしまうのです。わたしはここに、パウロの信仰のすばらしさがあふれでているように思うのです。

「わたしの主」と呼びかけておりますが、「わたしの主キリスト・イエス」、だれかれの主キリストではない。もちろん、すべての人の主キリストではございますが、「わたしの主キリスト・イエスを知る知識」。パウロにとっては、特別なイエス・キリスト、パウロにとっては誰かのキリストではない、もうイエスさまはわたしのキリスト、世界中の人々の救い主であるだけではない、いや、もちろん多くの人々がイエスさまを信じてはおりましょうが、そういう人々のイエス・キリストではありますけれども、イエスさまがおひとりであるならば、また自分もたったひとりであるがごとく、わたしのもの、というようなキリスト理解が、「主キリスト・イエスを知る」ことであって、この知識は絶大な価値があるのです。

わたしも牧会者のひとりとして、奉仕をつづけさせていただいておりますが、牧師にとって最大の痛みは、せっかく主の教会に導かれ、キリストの群れの一員に加えられ、神の国に入る恵みにあずかりながら、その恵みから遠ざかって行くたましいを見る事です。これは牧師にとって悲しい、また胸の痛む出来事なのです。あれだこれだと、去り行く理由をその人たちは述べるようではありますけれど、せんじつめれば、その人が、果たしてどれだけキリストのことを分かっていて下さったのだろうか。わたし共の方から言うならば、どれだけキリストをお知らせしていただろうか、ということを反省するのです。

すなわち、その人にとって、わたしの主と言えるようなかかわりの中へ、お導きしたであろうか。また、その人自身、「わたしの主キリスト」と言える信仰を持っていて下さったのであろうか、ということを考えさせられます。このイエスさまが分かりさえすれば、迫害の嵐がこようが、あるいは、わたしたちの健康上の試練がこようが、どのようなことがこようが勝利です。イエスさまがわかってくれれば、憂き悩みもしばしの間ぞと、試練の中にあって、その信仰は、深みを増し、輝きを増してくるのです。

「わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。」ふん土と書いてありますが、小島伊助先生はこのところをこう言われました。「ふん土」は「糞」のことで“糞“というものは、そばにあっていいものではない、といわれるのです。

さて、次の箇所をお開きいただきたいのですが、コロサイ1・26以下です。「キリスト・イエスを知る」ということですが、如何なるキリスト・イエスであるかを見ていただきたいと思います。「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」とありますが、イエス・キリストについての知識もいろいろございますが、この朝は特に「うちにいますキリスト」を知る、すなわち、「あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」というキリスト、内に来て下さる、王の王、栄光の主として王座を占めて下さる、奥義であるキリストさまを知るということです。

コロサイ1章に、「うちにいますキリスト」が記されていますが、クリスチャンになって間もない頃は、目の開かれていない状態と言いましょうか、キリストを外側に知る世界ですよね。キリストを外側に追求しているクリスチャン生涯。しかし、このような修養会において、わたしたちに教えていただき、啓示していただき、体験させていただけるのは、「うちにいますキリスト」です。パウロはこのことを奥義だと言いました。だからこの修養会において、このキリスト様がわたしにとって、「わたしの主キリスト・イエス」「わたしのうちにいますキリストさま」だということであれば、皆様にとっては「奥義なるキリスト」を知ることができたというわけです。

キリストを外側ではなく、わたしの内にいらっしゃるキリスト、という奥義は、歴世歴代隠されていたのです。しかし、今や新約の恵みの時代に入り、聖霊の時代に入り、今は異邦人でさえもキリストを内にいただくことができる。キリストが我が内に在って生きて下さるという世界が提供されているのですね。クリスチャンになる時、その人の生活はたしかに変りますね。この奥義なるキリストがわかってくるときに、人がクリスチャンとなった時の生活の変化とは違った、更に深い、内的生命に変化が起きるのです。したがって、行動、品性、奉仕に変化が現われてきます。

パウロは28節において「わたしたちは、このキリストを宣べ伝える。」と言っているのです。このコロサイ書をひもといていく時に、このキリスト、奥義なるキリストについて、すばらしい言葉がつづいているのを見ます。たとえば、この「奥義なるキリスト」「すべてであるキリスト」「命なるキリスト」ということばが出て参りますが、このキリストが「あなたがたのうちにいますキリスト」であり、このお方こそが、わが命なるキリストなのです。このキリスト様を伝えないで、何を伝えているのであろうか。「この内なるキリスト、栄光の望み」であるキリストを、パウロが知った時、「この知識の絶大な価値のゆえ」に、他のものは、1切色あせてしまったと言った。パウロはまた、このキリストをみんなに分かってほしいと願い、力を尽くして、そして苦闘しながら福音を伝えているのです。

福音伝道者、宣教者としてのパウロの苦労のしどころは、まさにここにあったと、彼は1章の終わりに述べております。また2章のはじめには、

「ラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい」(コロサイ2・1-3)

「そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらである」(コロサイ2・10)

キリストをもつということは、すべてを持つことである。キリストを内に持たないことは、すべてを持たないに等しい。キリストが我が内に在って生きて下さる。これがきよめであると、今回の聖会で竹田俊造先生のことばが引用されておりましたが、「キリストが内に在って生きる」がきよめであり、これが福音であるというのです。そして、あなたがたは、このキリストに在って満たされているのである。

この聖会は明日で終わりますが、それぞれ、教会に、家庭に帰って行かれることでしょう、この早天において、わたしが最後に申し上げたいと思うことは、このキリストを忘れないでほしいということです。「えっ、忘れることがあるんですか?」とある人は思うかもしれませんね。こんなにも現実なお方を、こんなにもリアルな内住のキリスト様を、「忘れるようなことがあるだろうか」と思いますが、そういうことがあるのです。

エペソ人への手紙6・10をお開き下さい。

「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」

この御言をリビング・バイブルの訳でみますと、「あなたがたの力の源泉は、あなたがたの内におられるキリストの全能の力にあることを忘れないで下さい。」わたしはその1句にふれたときに、すばらしいと思いました。早速、英語のリビング・バイブルを調べてみました。

I want to remind you that your strength must come from the Lord’s mighty power within you.

「覚えておいてほしい。忘れないで下さい。」

これは、記憶の問題よりも、むしろ信仰の問題でしょうが、「あなたの力の源泉は、その奥義なるキリストである。」この香登修養会において、恩寵に溢れて「我ここにおるはよし」とペテロと同じ気持になるでしょう…。しかし、これから出て行くわけです。いつまでもここに居るわけにはまいりません。このところで皆さんがどんなに恵まれていても、やはり、これからそれぞれの所へ、つかわされて行くわけです。しかし、恵まれた、祝福を受けた皆様にとって、あなたがたの「力の源泉」は、あなたがたの内におられるキリストの全能の力にあることを忘れないでほしいのです。奥義なるキリスト、キリストが我が内に在って生きて下さる。

「忘れないで下さい」と言っているのは、忘れることがあるからそう言っているのです。忘れている人もあるからそう言うのです。いや、しばしば忘れて肉を頼みとしてやっているからそう言っているのです。ああ、主よ、本当にわたしたちは、なんと愚かなことをやってきたのでしょうか。行き詰まってしまった原因が、あれだこれだと言っておりますけれども、わたしの力は外側にあるのではない。あれだ、これだ、ではない。「ああ、このお方様だ」。わたしの内にいる復活のキリスト、内にいる全能の力を持っておられるキリストに、わたしの力の源泉がある。源泉があるのです。だから、このキリストを忘れないでほしい。

皆さんが、この聖会において、このキリストを知り、このキリストを崇めながら、このキリストを感謝しながら生きていく生涯は、まさに天国の生活であります。

「これは霊なる主の働きによるのである」(コリント第2、3・18)

キリストのかたちが内に成されていくのは、それは外側ではなくて、内側にいます主の霊によって変貌していくのです。力の源泉わたしたちが聖書を読んでおりますと、この内なるキリストが、パウロの「力の源泉」だったことがわかります。彼が獄屋の中に閉じ込められていても、「されど、神の言葉はつながれたるにあらず。」どのような迫害むち打ちの刑を受けても、彼の内にある、命なるイエス・キリストは、その肉体の弱さを越えて、溢れ出ていくのです。

踏んでもけっても、どのようにさいなんでも、出てくるものは、キリストの輝きであったのです。今、聖書の引用を幾つかしたいと思います。(テモテ第2、4・16-17)このところを文語訳で見てみますとすばらしいですね、非常にすぐれた訳だと思います。

「されど主、我と共に在して、我を強め給へり」。

自分の期待していた弟子たちが、弁明のために立ってくれるのではなかろうか。あの人もいる、この人もいる、と思っていたけれども、色々な事情で、皆居なくなった。パラクレイトスとして、自分のそばに居て弁護者として立ってくれる者がいるんじゃなかろうかと思っていたけれども、みんな捨てていってしまった。しかし、本当の弁護者、慰め主、パラクレイトスは御霊様である内住のキリストです。このお方さまが「されど主、我と共にいまして、我を強め給へり」。この聖霊に満たされて、キリストが我が内に生きて下さるならば、色々起きてくる問題がありましょうとも、恐れることはありません。むしろ苦しみの中こそが、皆さんの内にいただいたキリストが輝いて下さる場なのです。

パウロにとって、他の人々が去ってしまったということは、もっとも近い弁護者を知り、体験し、そして崇め、彼の心が主によってもてなされる時であったわけですね。次の御言をごらん下さい。

「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも貧しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(ピリピ4・12-13)

なんとすばらしいことでしょうか。“矢でも鉄砲でも飛んで来い“と言いたくなる力強いおことばです。その奥義、秘訣はなんだろうか。ほかでもありません、これは、「わたしを強くして下さるお方であった」ということです。「あなたがたの力の源泉は、あなたがたの内におられる、キリストの全能の力にあることを忘れないで下さい。」

もう1つ御言をごらん下さい。(コリント第2、4・7-10)

「その測り知れない力は、神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」

この測り知れない力とは何でしょうか。それは、土の器、素焼の器、さわれば“パラッ“とすぐに割れてしまいそうな器に過ぎないけれども、その中に盛られているのは、まさに宝というべきものだという意味です。決して宝を粗末に取扱ってはなりません。宝は尊ぶべきものです。しかし、その素焼の器、土の器に盛っている宝からは、測り知れない力が出てくるというのです。この測り知れない力をわたしたちは、この内住のキリストから受けていくのです。神の偉大な力は弱いうちに働くのです。わたしたちは全うされるのである。むしろ、弱さを誇ろう。わたしは、だれかれのようではないから駄目だとか、わたしは、だれそれ先生のようにあのライセンスやタラントを持っていないから駄目だとか、わたしたちは外側のことを、あれこれ考え、言いがちであります。しかし、「わが霊に由るなり。」力でもない、権勢でもない、まさに主なる内にいますお方さまによって生きるのであると言おう。

昨晩もすばらしいメッセージをいただき、おたがい本当に悔い改め、イエス様をお迎えいたしました。このお方様を知る知識の絶大な価値(富)を幾分なりとも分かっているのは、すばらしいことです。しかし、これからは、あなたの実際生活の中に、苦難の中に、栄光の中に、喜びの中に、試練の中に、より一層キリスト・イエスを知る知識の絶大な富を知ろうではないですか。今日、内にいますキリスト、栄光の望みを、もう一度ここで心いっぱい感謝したいと思います。

今、お祈りの時をもちたいと思います。本当にこの内にいますキリストを崇めようじゃないですか。感謝しようではないですか。こんなわたしたちの内に、王の王、主の主、全能にして、活けるお方様が、唯信仰によって、お住まい下さる、これは奥義です。これは圧倒されるほどの恵みではないでしょうか。どんなに感謝してもし過ぎることはありません。感謝することこそ、信仰の最大の表現です。お祈りいたしましょう。

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