〔3〕 永遠の聖霊によって ( 7.13/2006 )
3、永遠の聖霊によって

永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。(ヘブル人への手紙9章14節)

昨日の日曜日、福岡に城東橋教会という教会がございますが、わたしはそこの礼拝に招かれて御用いたしました。その教会で40年以上にわたって奉仕をされた先生は森俊治先生でして、小島伊助先生と塩屋の神学校同期の先生です。その先生が召されて3周年の記念の礼拝に是非来てほしいということで招かれてお伺いしたわけです。森先生について、わたしもいろいろエピソードをお聞きし、またお交わり、あるいは御指導いただいたこともありますが、先生が福岡大学の病院に入院されているとき、ベッドに横たわりながら語られたというんです、身内の方々にですね。それは病室の天井は目すかしで天井をはってあるわけですが、ベッドから見れば丁度十字になった箇所が4箇所あったというんです。そして御家族の方々に、この4つの十字架をさして、「この1つの十字架はわたしのためなんです。ひとつの十字架は家族のためです。もうひとつの十字架は教会と教団のための十字架です。そして最後の4つ目の十字架は日本と世界のための十字架です」と。

この森先生は、また病院へ訪れて来る知り合いの方々にも、寝ながら「あの十字架はわたしのためです。あの十字架は家族のためです。あの十字架は教会と教団のためです。そして、あの十字架は日本と世界のための十字架です」と語られたというんですね。昨日の礼拝においても、その先生の語られたそういう事を思い起こしながら十字架のメッセージを取り次いだ次第です。人間が今まさに死のうとしているとき、何がその人の心に安らぎを与え、何がその人の将来に対す揺るがない希望を与えるのでしょうか。自分がやって来た過去の業績を数えることによって、人は必ず天国へ行くことができると言えるでしょうか。人々の賞賛のゆえに、自分のたましいは平安であると語ることができるでしょうか。いいえ、そういうようなものでわたしどものたましいは安らぎを得、わたしたちの将来に対する揺るがない希望をもつことは不可能です。それはただ、イエスキリスト様の尊い御血潮のいさおしです。イエスの血潮、イエスの十字架だけです。

ウエスレーのお父さんが召されるときに「ジョンよ、イエスの血だよ」と言ったということであります。ウエスレーも言っておりますね。

“I, the chief of sinners, am, but Jesus died for me.”
「わたしは罪人の頭だ。しかしイエスはわたしのために死んで下さった」。

様々なことが福音の中に語られるようでありますけれども福音の中心はイエス様、イエス様の十字架にあるのです。今回の聖会の標題はこちら側を見ますとどうでしょうか。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」これが聖会のメッセージ、これが福音です。これがわたしたちのきよめなんですね。

コリント人への第1の手紙をごらんいただきますと、使徒パウロはこう言っております。1章の18節におきまして、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。十字架は「力」だというんです。コリントの人々は十字架というものがそんなにまでも力があるということを理解できませんでした。彼らは知恵を求め、しるしを求め、哲学を求めておりました。しかしパウロは十字架に「力」があるんだ、と言ったのですね。コリントの町は御存じのように、富とぜいたくと享楽と哲学の町であったと言われています。そういうようなぜいたく、富、享楽、そして頭脳だけの哲学、そんな彼らの町へ何を伝えるべきであろうか。何がこの町に伝えられなくてはならないメッセージだったのでしょうか。宣教者パウロが考え、祈るときに、彼にはひとつのメッセージがあったわけです。それはイエス様の尊い十字架だったわけですね。ですから十字架の言だけが力なんだ。滅び行く者には愚かであるけれども、救にあずかるわたしたちには神の力だ。

よく御存じのように、この力はデュノミスということばでありますが、本当にダイナミックな力なのだ。世界を造り変え、人間を造り変え、その人間の最も深いところに革命をもたらすところのものは、まさに十字架だと彼は言うのです。当時の人々は、コリント人への第1の手紙1章22節、「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。」ここに記されておりますように、ユダヤ人達はこのしるしを請い求めており、ギリシヤ人達は知恵ですね、ソフィア、哲学はフィロソフィア、「知恵を愛する」のが哲学の起こりだと言われておりますが、この知恵を、請い求めているギリシヤ人。すなわち当時のギリシヤ人達、当時のコリントの人達はユダヤ人もギリシヤ人も十字架じゃなくって・・・欲しいものはしるしであり、欲しいものは知恵だと言うんですね。それを求め続けていたんです。

しかしパウロは後に記されておりますように、「ユダヤ人にはつまずかせるもの」、このつまずかせるものというのは、何か石のようなものとすぐ考えやすいのでありますが、これはむしろ嫌悪の情を催すものを意味します。十字架と聞いたら、「ああ十字架、ああ十字架、カルバリの十字架、我がためなり」、そこに十字架の麗わしさ、十字架の慕わしさというものを今日のクリスチャン達は思うわけです。「あけに染みし君が十字架、限りなく麗わし」こういう讃美歌がありますが、ユダヤ人達には十字架というものは「限りなく麗わしい」じゃない。十字架というものは、へどがでてくるようなものだったんです。ユダヤ人にとって十字架というものは麗わしい言葉じゃない。耳ざわりのいい言葉ではない-十字架-聞きたくない、嘔吐を催すようなものだったのです。

しかしパウロは、あえてわたしは「十字架」を語ると言うんです。十字架は神の英知の結集です。人間の側で言うならば、あれも語らなくちゃならない、これも語らなくちゃならない、おっとこれを忘れちゃいけない、というような心理もあるかもしれないけれども、この十字架にこそ神の力があり、これは神の英知の結集だっていうんですね。パウロは十字架を語る。十字架を真正面から語っていくと言うんです。

ですから同じく、コリント人への第1の手紙の2章1節をごらん下さい。「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。」よく言われておりますね、哲学の世界はロゴス、知恵ソフィア。「すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエスキリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(2・2)一言説明するならばパウロは、わたしがあなたがたの所に行って伝道したとき、わたしの説教を聞いた人々で、ある人はこう言ったであろうというんです。「パウロ先生、先週も語ったじゃありませんか十字架を。また十字架ですか。また次も十字架をお話するのですか」と。パウロは十字架以外に何も福音がないかのごとく十字架1本、十字架そのものを大胆に語った。しかもその十字架の上に釘づけられた、あの痛ましい血の流された、残酷な、目をそむけたくなるようなキリスト様をわたしは語ったというんです。

今晩、わたしは皆さんとこの聖会の最初の夜、もう1度十字架をあがめたいんです。十字架を感謝したいんです。十字架の血潮に対する新鮮な、生き生きとした感謝、讃美を捧げ、十字架に心から信頼を置きたいのです。さて、今日お読みいただきました聖書の箇所に返っていただきたいと思うのです。ヘブル人への手紙の9章です。14節だけお読みしたいと思います。「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさらわたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」この14節をみますときに、マルチンルターはこの所を、ちょっと日本語訳とは違って、彼は「仕える者としないであろうか。」と疑問形で訳していないんですね。彼はつぎのように、「キリストの血は、わたしたちの良心をきよめて死んだ業を取り除き、生ける神に仕える者といたします。」と、感嘆文にしているんです。宣言と言うよりは、彼は大きい興奮をもった叫びに訳しているんです。イエス様の血潮がわかってくるときに、わたしたちは叫ばざるを得ない。すなわち、イエス様の血はわたしたちの良心をきよめて下さった。わたしをかくかくしかじかの罪、こういう汚れからきよめて下さった。そしてわたしを神様に仕える者にして下さいます。なんとすばらしいことよ、と言うのです。

昭和28年、わたしが聖会というものに初めて出席したのは、岡山県の玉野市で開かれた玉野新年聖会。その時の講師は小島伊助先生がおみえになりました。新年聖会ですから、ずーっとですね、ローマ人への手紙の講解説教をなさいました。わたしはそのときの聖会を今も忘れることができません。わたしはそのとき献身すべく召されたわけです。そしてそういうような聖会のメッセージを聞いてですね、まだクリスチャンになって間もない若いたましいでしたが、もう感動、喜びというものがこみ上げてきたんです。ですから、わたしを導いて一緒に聖会に連れて来て下さった先生が、「もう夜もおそいですよ、静かにしなさい。他人に迷惑になります」と言われましたが、「先生といえどもこの喜びを抑えることはできません」といった幼い信仰者の感激の叫びを思い起こすのです。イエスの血潮によって罪が赦される。イエス様の尊い血潮によってたましいが変革される。わたしの罪が全く跡かたなくきよめられていくというこのメッセージを聞くときに、この実質をわたしたちが受け取るときに、喜ぶことができないっていうことはあり得ない。喜ばざるを得ないわけです。よく言うことでありますが、右足を上げてハレルヤ!左足を上げてグローリー!だと言いますけれども、本当にイエス様の血はわたしたちのたましいをして叫ばせる、讃美させる、そういう実質があるわけです。

「永遠の聖霊によって、御自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血」。旧約時代には、山羊や雄牛の血や雌牛の灰が人々のきよめのために用いられて来た。山羊の血が流された。羊の血が流された。牛がほふられた。そして彼らは焼かれた。灰がかけられた。ああしなさい、こうしなさい、と律法はありました。しかしそういうようなものは1時的であった。外側はきよめることができたけれども、人のたましいの深い所に、良心のその奥底にまで、光はとどかなかった。きよめの業は及ばなかったんです。しかし永遠の聖霊様によって御自身を傷なきものとして、なんら傷のないしみもない、欠点のないイエス様の血潮、子羊のような本当に無垢なイエス様の血潮、十字架の血潮はわたしたちの良心をきよめて、死んだ業を取り除くというのです。

「死んだ業」って何だろうかなと思いますね。わたしもいろいろ考えさせられ教えられていることでありますが、死んだ業ってなんだろうか。この言葉はいろいろに訳すことができるかもしれませんが、わたしがここで教えられたことは「死人の働き」(今日も来る途中でね、尊敬する福本先生にですね、「あなた死人に働きができるか?」とわたしは聞いたんです。「死人の業と書いてる。死んだ者達の業と訳すことができますが、どうなんでしょうかねぇ」と言われましたが)死人も働きができるんです。「死人に触れなば汚れる」という。旧約聖書をわたしたちがひもときますときに、死人に触れたら汚れていく。ここで言おうとしているメッセージは何ですか。丁度死んだ人間が生きた人間に触れていくときにですね、死んだ人間はそのままじゃないんです。生きた人間を汚していくのです。死んだ業というのはわたしたちが汚していく、あの人を汚していく、この家庭を汚していく、教会を汚していく、ふれるものをみな汚してしまう「死んだ」業。それはどこから出てくるか、心から出て来る。汚れはどこからか、天から降って来るのではない、地から湧いて来るのでもない。内側から出て来るわけですね。

先日も御言を読んでいて教えられたひとつのことがございますが、サムソンのことを思い起こします。生まれながらにして聖別された人間だったんです。ナジル人で聖別された人間だった。しかし彼はどうなりましたか、デリラのそのひざに眠っているときに、彼の髪の毛はそられたんです。今日、デリラのひざのようなものがわたしたちクリスチャンのまわりに数々あるのではないだろうか。あなたにとってデリラは何でしょうか。デリラはサムソンを誘惑したわけです。「サムソン、あなたの力の源はどこにあるのですか。あなたの怪力の源泉はどこにあるのですか?」と聞きました、泣いてね。サムソンに対してデリラの誘惑は本当になまめかしく続いたわけです。そのときわたしの髪の毛にあると彼は言ったんです。聖別にあると言ったんです。サムソンのあの怪力の源泉は、彼が聖別された世界にあったのです。神に献げられた世界、すなわち神様が彼にとってすべてであったときに彼の力はそこにあったわけですね。しかし彼の聖別が、献身がだめになったときに、力は失われてしまったんです。

クリスチャン生活を何年か送っていくうちに、若き日に神の前に献げた献身、何年何月何日、あのバイブルキャンプにおいて、あの修養会において、主よ、わたしはあなたのものですといって新しい生活を始めました。しかし様々な形をとったデリラがやってまいりました。あなたの力の源はどこですか?神の前に献げられた生活と違う生活、世のものとみさかいがなくなった生き方へと誘う、それが聖別からおりて行くことですね。愛する兄弟姉妹、サムソンはその後どうなりましたか。両眼はえぐられ、青銅の足かせをつけて、つながれましたよ。そして牢屋の中でですね、碾き臼をまわさせられたんです。その碾き臼をまわす仕事は誰の仕事ですか。それはロバの仕事です。牛の仕事なんです。それを、あの大きな碾き臼を彼は毎日毎日引いて行った。むちを当てられながら彼は碾き臼を牛やロバのように黙々、黙々と引いて行くんです。人間の髪の毛は1ヶ月に1センチ伸びるとある方は言っておりますけれども、剃られた髪の毛も毎日毎日伸び、牛やロバのようにまわっているときに彼にもう1度悔い改めのときが来たんです。彼は目をつぶされ、奴隷のようにされ、辱められながらも彼は神の前に叫んだのです。「神様、わたしの献身をもう1度受け入れて下さい。わたしの不信仰をどうぞお赦し下さい。わたしの神に対する反逆を赦して下さい。わたしはイスラエルを救うために立てられた、聖別された人間でした。しかしわたしはその聖別から堕落しました。主よ赦して下さい」彼は毎日毎日動物のようにこき使われるその中において、神の名を叫び、求めていったわけです。神はその叫びに応えて下さった。旧約時代ではありますが、神はその叫び、祈りに応えて下さった。新約で言うならイエスの血は赦して下さったのです。彼は祭の日に引っぱり出されました。彼は辱しめられました。しかし彼はペリシテ人の君たち、民達が大勢はいっている家の柱を、右の手に1本、左の手に1本、中心になっている2本の柱を握りしめて神に祈って渾身の力を注いだのです。家はペリシテの君達とすべての民の上に倒れてしまった、と記しておりますね。

わたしたちももう1度、イエスの血によって聖別が本当に回復されなくちゃならない。ここからわたしたちの変革が始まっていく、教会のリバイバルが始まっていく、ここからわたしたちの、この世界が変えられていくんじゃないでしょうか。ナアマンという大将のことも記されておりますが、身分は大将です。外側は立派な軍服です。武勲を数々たてました。今日流に言うならば、金銀宝石でできた勲章を胸いっぱいに飾っていたではありましょうが、その衣服の下はただれがあるんです、くされがあるんです。愛する兄弟姉妹、死んだ業、これがわたしたちの家族を汚しているんじゃないでしょうか。あなたの子供達がクリスチャンにならない、そして熱心にならない、そして献身の生活を送らない。クリスチャンの父よ、母よ、それはあなたがナアマンと同じように、外側はクリスチャンであるという服装や、レッテルはあるかもしれないけれど、子供達の目に内側のただれ、が見えているんじゃないでしょうか。

わたしはそれを恐れます。わたしもひとりの牧師です。毎日伝道と牧会に励むわけですが、ナアマンと同じように、牧師のガウンは着ていても内側が潔められていないということはないかと主の御前に反省するのです。もし内なる汚れを誰かが見るならば、なんだ、大したことないじゃないか。講壇ではあのようなことを語るけれども、汚れているじゃないか、といってメッセージに耳を傾けないでしょう。愛する兄弟姉妹、今晩、イエスキリストの血は我らをきよめる。それは過去の罪を赦し、潔めて下さったというだけじゃない。その潔めの業は、この2千年の今日、なおもきよめ続けていくというんです。そしてこれから後もきよめ続けていくであろうと確信されている御言なんです。

イエスの血はきよめることをしないだろうか。マルチンルターではないですけれども、イエス様の血はきよめて下さる!!とこう叫んでいるんです。神様があなたに、あなたの弱い所はなんだろうか、ひとりひとりの心の中に、あなたはこれがゆえに家族に福音が届かないんじゃないか。あなたの教会がなぜ燃えあがらないのだろうか。この献身の生活にひびがはいっているんじゃないか。ここにあなたの破れているところがあるんじゃないか。教会の問題だけじゃなくて、また日本のリバイバルはどこからだろうか。どこかにわたしたちの隠した罪のゆえの敗北があるんではないだろうか。神様はわたしたちに今、語っているんじゃないでしょうか。アカンじゃないですけれども天幕の下に隠していてもですね、それを神は知り給う。それを処罰しなくちゃならない。それが主イエスの血潮で洗われなくては勝利はできないのですね。

愛する兄弟姉妹、今日、この最初の夜、わたしたちは神の前に自らを点検していただこうではないですか。神様の前に、あなたは本当に聖別された状態でいますか。わたしは聖会は大切だと思っております。特別なメッセージ、あるいは特別なことがあるというばかりではなく、本当に神の前に探っていただくということの大切さを覚えるんです。わたしたちの力の脱漏は罪の不徹底な悔改め、罪を不徹底に処分している所じゃないでしょうか。アカンは殺されなくちゃならないんです。

今日、もう1度聖書の御言、十字架の血潮をあがめていきたいものです。もう1度最初の御言に返りましょう。ヘブル人への手紙の9章の14節「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」ここに仕える者としないであろうかとありますが、神はあなたを真の礼拝者にしたいのです。祭司が礼拝をするために、まず血潮をもってきよめられて、神殿に、幕屋にはいって行ったのです。祭司はまず血潮できよめられてから奉仕にはいって行きました。わたしたちは礼拝や奉仕を汚れた手ではできないんです。今1度、血潮をわたしたちの頭の上に注いでいただきましょう。心の上に注いでいただきましょう。

ここに「良心をきよめる」とありますが、テモテ第1の手紙1章19節を見ますと、そこには「正しい良心を捨てたため、信仰の破船にあった」ヒメナオとアレキサンデルがいるというんです。わたしはその手紙を読みながら、ひとつの痛みのようなことを思うんですね。恐らくパウロがテモテに書いた、ヒメナオとアレキサンデル、このお2人は特に有名な人だったに違いないと思うんです。教会の指導者であったろうと思うんです。しかし、立派な指導者であっても、その良心が汚されて来たとき、信仰の破船を招いたというのです。ですからきよき良心の中に信仰の奥義を保つべしと書いてあります。

今日、イエスキリスト様の血潮が頭に注がれるだけではない。我らの心の、その深い所に注いでいただきましょう。人には言えないような、本当に今、聖霊が「あなたはこれが…」と言われるそのものに、今血潮を注いでいただこうじゃないですか。「イエスの血、すべての罪より我らをきよむ。」お祈りいたしましょう。

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