〔5〕 末広がりの恩寵 ( 7.13/2006 )
5、末広がりの恩寵

花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわ
るいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。イエス
は、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエス
を信じた。(ヨハネによる福音書2章10節-11節)

このヨハネの福音書2章はカナにおける婚宴の奇跡です。わたしが丁度20年程前、すなわち、わたしが神学校を卒業する時に、神学校の先生が、卒業して伝道の第一線に派遣される若いわたしたちに対して、はなむけの言葉として下さったのが、ここからでございました。その時の言葉は、こういうことでした。「神様の恵みは、水をぶどう酒にして下さる。そして、良き物を出して下さる。すなわち、後ほど良き物を出して下さる神様です。末広がりの恩寵の世界です」ということを卒業して行く若いわたしたちに語って下さいました。その時の言葉を今もわたしは忘れることができないのです。これからどうなっていくのか、希望はもっております。信仰ももっております。胸をふくらませている若い巣立ち行く伝道者の心は、明日に向かってはばたくわけでございますが、しかし、ある者は、戦列から日ならずして落ちていくというような悲しむべき現実もある。やはり一抹の不安もあるわけです。卒業して行く若者達に向かって、「神様の恵みは、のちほど良き物を出して下るのですよ」という世界、そして、「末広がりの恩寵の世界なんですよ」という激励の言葉。わたしも卒業生のひとりとして、その言葉をありがたく、感謝を持って受けとめ、20年を経た今日、その言葉はまことである、その言葉は真実であると確信を持っていえます。


この世は、最初はきらびやかであり、華やかです。最初は人々も賞賛をする。しかし、行き詰まり、道が細くなり、そして挫折するかもしれません。しかし、神の世界、信仰の世界というものは、末広がりの世界なのです。ですから、この修養会にお見えになられた皆さんに、わたしがこのヨハネの福音書2章から申し上げたいことは、あなたがイエス・キリストに連なっている時、あなたの人生、あなたの生涯、あなたの信仰というものは、末広がりであるということを心に留めてほしいということです。どうぞ、この御言を心に留めて下さい。この2章の奇跡は、ヨハネによるならば、最初のしるしであると、記されていますね。最初に、こんなすばらしい奇跡を起こして下さったのです。「ぶどう酒がなくなってしまいました」この時、逆転の恩寵がここに起きているのです。ただ、聖書にこのような昔話が載っているというのではなくて、読むクリスチャン一同に、あの、かつて起きたガリラヤのカナの奇跡は、今も信じる者のうちにも、起きるんだよと語っているんですよ。


この夏も楽しい高校野球がありましたが、この野球のひとつの魅力は、逆転というのがありますね。逆転があるから野球は面白いんですよね。最初の1点を取ります。次にまた点を重ねていきます。そして、もうそれで試合が決ってしまったかというと、そうはいきません。9回裏、ツーアウトがやってきても、次は、ホームランが出るという逆転の場面があるのです。あるいは、逆転の3塁打が出る、いやサヨナラゲームになるという世界が野球の世界です。だから、熱狂的なファンがいるわけですね。人生にも、わたしたち信仰の世界にも、逆転の世界があるから、この信仰は止められないのです。わたしは、そのことをつくづく思うのです。皆さん、いつでも、主にあれば逆転の世界が開けるものなのです。ですから、わたしたちは、こういう事態が起きたから、もうわたしの生涯は駄目だというなら、信仰の世界は面白くありません。ところが、そういうような、ぶどう酒が尽きてしまいましたという世界がやって来ましても、とっておきのぶどう酒があったという世界が展開していくのです。この信仰の世界というのは、嬉しい奇跡のある世界ですね。

わたしは、中学生のころは熱烈な巨人ファンでした。川上がまだ現役で、その当時のわたしたちを熱狂させていた時代です。ある巨人対阪神の時に、テレビのない時代でしたので、中学校でラジオの実況放送を聞いていたのです。阪神が3点のリード、そして9回裏になってツーダウン・フルベース。巨人のバッターは、4番川上、カウントはツーストライク、スリーボール、最後の1球、これで勝負が決まってしまうというとき、巨人ファンのわたしは、当時まだ、クリスチャンではありませんでしたから、お祈りはしませんでしたが、(祈りたいような気持で)ここで川上が、あの左バッターから弾丸ライナーをライト・スタンドにガツンと、1発打ち込んでくれたらいいのにと思いました。投げました! 打ちました!…その球は、弾丸ライナーで、ライト・スタンドに突き刺さったのです。今まで阪神が3点リードしていたのですが(今、ここに阪神ファンがいたら、申し訳ないが)一ぺんに逆転サヨナラで巨人が勝った。まさに劇的です。


わたしたちはクリスチャンになりまして、聖書を読みますときに、奇跡がたくさん出て来るのに気づきますね。ある人は、奇跡があるから聖書を読んでも面白くないと言います。しかし、わたしは奇跡があるから聖書はすばらしいと思う。奇跡があるから信じられる。奇跡があるから人生は楽しい。信じない者には、奇跡がつまずきになります。しかし、信じる者には奇跡は大きい希望です。奇跡はつまずきではなくて、今もなお生きていて下さる神様の御業に対する、わたしたちの讃美と信頼を湧き溢れさせてくれるものです。ですから奇跡は、つまずきではなくて、わたしたちの信じる者に希望を与えるのです。

さて、内容をもう少し見ていきましょう。この2章のガリラヤのカナにおける婚礼には、イエスの母マリヤもそこに居ったとあります。それだけではなくイエスの弟子たちもその婚礼に招かれたとあります。新郎はどんな顔をしていたのであろうか…お名前はなんであろうか…といったようなことは、ヨハネは記しておりません。まあ、そんなことはどうでもいいかもしれませんね。ある学者によるならば、これはイエス様のいとこさんの結婚式であろう、すなわち、マリヤの御兄弟の息子の結婚式だといっています。ですから、ここでは、イエスの母マリヤが、ぶどう酒がなくなりましたとか、かいがいしく、当日の宴会において奉仕し、お手伝いしているわけです。それだけではありません。イエス様も招かれていらっしゃる。いや、イエス様だけでなく、イエス様の弟子達までも招待を受けているというのですから、近い身内の方の結婚式であったということがわかります。

ところが、この婚礼において困ったことがおきたと書かれてあります。「ぶどう酒がなくなったので」とあります。ある聖書学者によるならば、この結婚した人は貧しい人であったので、ぶどう酒を少ししか用意できなかったのです。だから、ぶどう酒が途中でなくなってしまったのだと説明していますが、わたしはそうは思いませんね。貧しい人だとか富める人だとか、ここには、別に説明が書かれてありませんが、貧しい人の結婚式だから、ぶどう酒がなくなったとは考えられません。日本でもそうでございますが、結婚式というものは、一生一度の出来事です。わたしも結婚のおせわをしたり、司会をしたりいたしますけれども、最初は「先生、ちょっとお金がないのです。もうお金が足りないので、しめて(節約して)やっていただきたいのです」「いや、十分にできないのです。質素にやりたいのです」と言います。けれども、話がだんだん進んで行きますと、「ええい、もう一生に一回だから」ということで結果はもう大盤振舞いになってしまうわけですね。これは、日本もどこの国も同じだと思うのです。このぶどう酒がなくなったのは、貧しいからではなくして、ハプニングが起きたのです。

結婚式の日取りが決まる。そうするならば、どなたをお招きしようかというわけで、わたしのお友達の○○さん、わたしの会社の○○さん、ご近所の○○さん、親戚の○○さん、というように、招待客のリストを作ります。それだけではありません。こちらで気付いている人以外の人々の分までも用意するのです。50人招いているならば、60人分は用意する。教会でも、パーティーをする時もそうですね。「先生、100人です」と言うならば、130人分位は用意します。もし人がお見えになって、足りないというような無様なことがおきないように、十分に用意をしておきます。このガリラヤのカナの婚礼においても然りです。ところが、人生にはこれだけしておれば大丈夫、これだけ用意しているのだから大丈夫だと思い込んでいましても、思わぬ出来事があるというのがこの世の中ではないでしょうか。

教会においても然りです。こうしているのですから、これだけ用意しているのですから、皆このように思っているのですから、皆このように奉仕しているのですから…あれですから、これですから、間違いない。しかし、間違いは起きるのです。個人において、また団体において然りです。ここには貧しいからという理由は書いていませんが、おそらく、思わぬ人が遠くからかけつけてくれたのでしょうか。ご近所のあの方もこの方も、お慶びをもって、かけつけてくれたのでしょう。「さあ、さあ、どうぞ、どうぞ」と言っているうちに、用意していたものが尽きてしまったのです。“ハプニング“ということばがありますが、まさにハプニングというのがその理由です。そして、ごらん下さい。そういう時にわたしたちはどうするか。わたしたちの計画が挫折した時、あるいは、わたしたちが思わぬ困難に出会った時、その時、あなたはどうしますか。

先週は、日本イエス・キリスト教団青年局主催の第16回青年全国大会が札幌で開かれました。若者たちが350人程札幌に集まったわけです。大会が進められていきますので、わたしも責任者として会計担当の先生に、この期間中に会計を締めてしまうように、そして、きちっとして帰りましょう、とお願いしておきました。2日目の夜のことであります。札幌美園教会の、一生懸命準備して下さった2人の会計の青年と、青年局側の担当者と一緒に夜遅くまで、ソロバンを入れながら、計算をしたのです。そして、青年達が宿舎に帰ったあと、青年局側の会計責任の先生がわたしのところにやって来ました。「御苦労さまでした。どのような具合ですか」。ところが、その先生が「横田先生、約百万円の赤字です」「百万円の赤字、一体どうしたのですか」。少々の赤字は、あるいは出るかもしれないと思っていましたが、まさか百万円もの赤字が出るなんてことは、夢にも思っていませんでした。出費すべきものはこれからもまだたくさんある。一所懸命ご奉仕して下さっている先生方にも、せめてお弁当代位は差しあげたいし、帰りの旅費もあるし、でもわたしの持って来たお金はわずかだし、置いて帰っても足りそうにない。あれやこれやと思うと、何ともやりきれない気持ちになって、つい一瞬、心の中で「予算がちゃんとあるのにねぇ、分からなかったのだろうか。札幌の青年たちも、一所懸命やって下さった。彼らは素人だから仕方ないとしても、彼等を監督指導するために、担当者がいた筈なのに。百万円なんて、結構大きな穴をあけてくれたねぇ」などと文句が出そうになる。告を聞きながら、今の今まで「感謝だったね、恵まれたね、すばらしい集会だったね」などと言っていましたが、「百万円の赤字です」と、聞いたとたんに「ああ、どうしてあの人達はぼんやりしていたのだろうか」と心の中で思いました。しかし、その瞬間、「どういうわけで、百万円もの赤字になったのだろうか」、一所懸命徹夜で準備し、祈ってやってこられたことでありますので、責めてはいけない、むしろ「ご苦労さん、よくやってくれた」と言うべきだと思ったのであります。そして、「どうぞ、主よ助けて下さい。わたくしは、そんなにたくさんのお金を持っておりません」わたしはその時、勝利を得たのです。わたしたちは、もし、思わぬ出来事がやって来た時に「その時にあなたはどうするか」、わたしたちがよくやることは、「あなたの責任です」と責めたくなることです。「わたしには責任はありませんよ。あなたがぼんやりしているから、こんなことが起こるのですよ。もう少し祈りなさい。信仰を持ちなさい。何をしているのですか」と。

ご主人だと奥さんに、「お前が悪い」と次から次へと相手を責めたてる。これは悪魔の思うつぼなんですね。その時、わたしたちは主の名を呼ばなくてはならないのです。詩篇50・15に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。」分かり切っている事ですね。これは、クリスチャンであるならば、お祈りすればいい、ということは、よく分かっているのです。けれども普通はつい、やいやい言って、その後で「行き詰まりました。どうしましょうか、もうどうしようもない」と言って、お互い傷つけ合いながら、最後にイエス様のところにいくのでしょうが、そうではなくて、
ヨハネ2章3節をごらん下さい。「母はイエスに言った」とあります。どうぞこのみ言葉を心に留めて下さい。線を入れていない人は線を入れて下さい。「母はイエスに言った。ぶどう酒がなくなってしまいました」、これを他の人に言うから駄目なのです。皆さん、あの百万円はどうなったのか、と心配して下さってるでしょう。先にお話しておきたいと思います。わたしは勝利をいただいたのですと、先程申し上げましたように、責めるのではなく、百万円の赤字が出た事情を詳しく伺おうと思って、その担当者の部屋をお訪ねしたところ、もう鍵がかかっている、ああ、これはもう明日にしなさい、ということかなあと思って、自分の部屋に引き上げようとしたところ、その方の部屋のドアが開いて、「横田先生、実は、部屋を暗くして、ベットにころがっていたのですが、わたしも気にかかって眠れなかったのです」「ああ、そうですか、それじゃ、わたしはあなたに、次の4つのことを聞きたいと思っているから、部屋に来て下さい」と頼んで来てもらった。「あなたは、今回はよくがんばったね」、賞賛とねぎらいをもって励ました。そして札幌の青年にも来てもらい色々と報告を聞いておりましたら、赤字になるはずがないのです。それで、慎重によく調べていって、分かったことは単純な計算ミスがあったのです。それだけでなく、百万円程黒字になったのです。わたしはその時、誰も責めなくてよかった、と思いました。主と彼等の前に、平安な気持で、対処することができて良かった。「主よ、感謝いたします」と主の聖名を崇めました。皆さん、聖会で恵まれて、「さあ、やるぞ」とか「祝された、恵まれたぞ」とかそれはいいですが、あなたがその後家庭に帰ったら、香登修養会のような雰囲気とは違うでしょう。「あれ? 少し調子がちがうね」と思われるかもしれません。待っていたのは、すばらしい歓迎のことばではなくして、「今までおまえは、何をしていたのか」と怒鳴られるかもしれません。その時、あなたはどうするか。母がイエスに言った「ぶどう酒がなくなってしまいました」、イエス様のひざ元に行くのです。

わたしは今年3度目でありましたが、韓国の教会を訪問いたしました。わたし共の教会の壮年達を伴って、韓国の教会に学ぼうということで行きました。色々なすばらしい教会を見てまいりましたが、その時、教えられたことを取り入れようと思って、韓国から帰って来て、いいえ、韓国滞在中から、朝4時に起きる事にいたしました。そして、今までは、6時からだったのですが5時から教会では、早天祈祷会をすることにしました。もう今は、福岡ではこちらより日の出は遅いですから、朝の5時というのは暗いですよ、4時というのは真っ暗です。ついこの前までは4時でも明るかったのですが、「ああ、夏は過ぎ去っているなあ」、というのが実感ですね。朝寝坊している人は、いつも同じように見えますが、朝早く起きている人には、時の移り変わりというのがよく分かりますよ。朝早く起きて、祈りかけたら、奇跡が起きますよ。「あたり前のことを言っている。そんなこと知ってる」、その通りです。知っていることを実行するのです。「母はイエスに言った」、わたし共の教会も、祈らなかったわけではないけれど、もう一度、朝早く起き出て、もう一度、神様の御名を呼ぼうと朝5時から祈り出したのです。朝5時からの早天祈祷会になれば、信徒も4時半には起きないと、出て来れないのです。そして祈り出した時、教会の中に、今迄遠のいていた兄弟たちが帰って来たのです。わたしは訪問はあまりしないのですが、しかし、兄姉が3人、教会に帰ってきました。新しい人が導かれるだけではありません。ほんとうに箸にも棒にもかからないような、もう押しても引いても、どうにもならないような兄姉たちが帰って来たのです。別に訪問したわけではありませんが、祈りの中に、御霊が働いて霊魂の中に届いて下さったのです。教会のあかしではありますが、「イエスに言った」と神の前にぬかずいた時に、聖霊は奇跡のわざをやってのけて下さるのです。

第2番目のこと、その時、あなたはどうするか。イエス様が僕たちに言ったことは、「かめに水をいっぱい入れなさい」そして、「さあ、汲んで料理がしらのところへ持って行きなさい」。この逆転の恩寵、と一口に言っていますが、思わぬ出来事、困ったこと、つらいこと、どうしても越えなくてはならない大きな山が立ちはだかる時に、どうするか。まず、祈ること、そして、次に御言に従うという世界がないと奇跡が起きないのですよ。この時の僕は、偉かったと思いますよ。母は僕たちに言った。「この方が、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言い残して、マリヤはまた別なところへ行って、かいがいしく働いていたようであります。ほんとうに僕たちは偉いと思います。なぜでしょうか。「かめに水を満たしなさい」とイエス様は言われたのです。イエス様のことばに従わない人はこう言います。「イエス様、水をかめに満たして何になりますか、今必要なのは、ぶどう酒ですよ、水ではありません」わたしたちが信仰生活において、すばらしい恵みの世界を体験しようとすれば、必要なのは、主のお言葉に対する服従ですよ。服従がないと駄目ですよ、理屈では分かるでしょう。お祈りすることは大事です。イエスさまに従うこと、「ああ、それもよく分かっています」と誰でも言います。しかし、現実に、従いなさいよ、と言われた時に「アーメン」と言って従うことをしないのです。「イエスさま、今わたしにとって必要なのは、水じゃないのです。ぶどう酒ですよ」あるいは、「料理がしらのところに持って行きなさい」と言われた時に、「イエス様、いや、ぶどう酒なら持って行きますけれどね。まだ水じゃありませんか。水なんか持って行けません。彼等が待っているのは、水じゃなくて、ぶどう酒なんですよ」。従わない理由をいっぱい見つけて、神のことばがせっかく語られているのに、それを拒みます。なぜ、クリスチャンたちが恵まれないのだろうか。なぜ、クリスチャンたちが生き生きとした、奇跡の伴った信仰生活を送れないのであろうか。「証しをして下さい」と頼んでも、証しが出てこないのはなぜでしょうか。みことばに従って生きていかない所に大きな問題があるのです。

わたし共の教会では、水曜日の聖書研究祈祷会にも証しの時があるのです。日曜日の伝道会にも証しの時があります。「よくまあ、これだけ証しがあるものだなあ」と思うほど、次々と証人がおこされますけれども、証しをしない人は全然しないですね。なぜだろうか、もし、この週に与えられた御言、礼拝メッセージにおいて与えられた御言、また、このような聖会で語られた御言に対して、わたしたちが全身全霊をもって応えていくならば、そこには、生き生きとした神体験があるはずです。生き生きとした祝福の体験、生きた証が溢れて来るのです。信仰はマンネリだとか、信仰は退屈だとか、教会へ行っても行かなくても同じだとかいうようなことではなくて、毎日がドラマです。本当に神様が生きていて下さるこの現実を身をもって体験し、証ししながら生きていくことができるのです。悲しい出来事が起きて、「神様、神様」とは言うけれども、神はあなたに「あなたは祈るのはよいが、この事はどうか。あなたの隣人をゆるしているか。また、あなたは、隣人を愛しているか。あなたは、神様にささげるべきものは、ささげているか。あなたは、神に対してきよい心をもっているか」と言われることに対して、「いいえ、神様、そのことではないのです。なんでもいいからこれに答えて下さい」とつっぱる。そうじゃないのです。神様に祈るときに、御言をひもとく時に、集会に出る時に、神はあなたに語って下さる。あなたの心に、あなたにだけ語って下さる御言があるはずです。

あなたが今、なおざりにしている問題、やろう、やろう、従おう、従おうと思いながら、1年も2年も延ばしている問題があるかも知れない。しかし、そのことにすぐ従ってごらんなさい。そこに奇跡が起きてくるのです。案外、わたしたちが退屈な、あるいは物憂い信仰生涯を送る理由は、細かいところに神様が光をあてて下さるのに、従えば今従える問題だのに、のばしのばししているところに原因があるのです。この朝、主は末広がりの恩寵を与えて下さるのです。後ほど、よき恵みを与えて下さるのです。この主がいらっしゃるのですから、また、主が語って下さるおことばに「アーメン」と言って従いましょう。

わたしが高松で開拓伝道を始めたばかりだった時のことです。この教会の名前は高松中央教会と言って、信者は誰も居ないのですが、わたしとわたしの家族だけだったのですけれども、大きな看板を出しまして「高松中央教会」、ヴィジョンがおわかりでしょう。やがて高松で1番大きな教会になるのだと思って、始めた教会でした。男が一たん看板を上げたからには、下ろすことができません。開拓伝道に意気込んでいた折しも、教団委員会から転任命令が出たのです。「石にかじりついても、ここを動きません。福岡なんかに行きません。あんなむずかしい教会などはゴメンです」と言って拒みつづけた。けれども、あちらから、こちらから、なだめすかして委員の先生方が、「行きなさい」とすすめるけれども「絶対に行きません」。

その当時教団委員であられた本田弘慈先生が、御自分のあかしをされました。「ぼくもね、君の気持がよくわかるよ。ぼくが、ステパノ聖書学院をやめる時もそうだったんだよ。『塩屋の神学校に合流しろ、合流しろ』と言われて、看板を下ろすことが男としてどんなにつらかったことか。だから君のつらい気持もよくわかるよ。ぼくもステパノ聖書学院の看板を涙ながら下ろして塩屋の神学校に合流したんだよ」その時、本田先生が言われましたよ。「あなたがここで従ったならば、あなたの伝道者としての、これからの生涯で、また信徒にも、神のことばに従いなさいと、語ることができるよ」と。神に従わない伝道者が神に従えと信徒に言えないわけです。わたしはあの日のことを思うたびに、ああ従ってよかったと思います。最初福岡に行った時は、そこは荒野でした。「ああ、来てよかった」とは最初は思いませんでした。しかし、従って1年、あるいは2年、3年…ずっと従って行く時に、ああ神様は、わたしを導いて下さっていると確信しました。よくもよくも、わたしは従うことができた。また、そのために、愛の配慮があったことを、そして祈りがあったことを感謝しました。

愛する皆様、祝福の道は、従うことです。従うということは、主への信頼を意味するのです。主に従うことは、主を愛することに通じるのです。そして、末広がりの恩寵があり、逆転の祝福があるのです。案外、柔らかそうでかたい人がおります。しかし「水をかめにいっぱいにして下さい」と言われた時、「これは、ぶどう酒と関係ないみたいですね」「イエス様、これは水ですよ」と文句を言わず、「アーメン」と従って行く時、奇跡が起こりました。あのシモン・ペテ

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