〔6〕 諸部族の長ではありませんか ( 7.13/2006 )
サムエルは言った、「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。それであるのに、どうしてあなたは主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、主の目の前に悪をおこなったのですか」。サムエルは死ぬ日まで、2度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのために悲しんだ。また主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた。
(サムエル記上15章17節-19節、315節)

それでは、聖書をお読みいたします。サムエル記上、15・1-35です。最後の一句、「しかしサムエルはサウルのために悲しんだ。また主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた。」このサムエル記上15節を読むたびごとに、神様の悲しむ、神様の僕の悲しみというものがわたしたちの心を打つのです。今、長い15章でありましたが、全部お読みいたしました。すなわち、せっかく神様によって、イスラエルの初代の王として立てられた、あのキシの子サウルが、ここで捨てられてしまうというところです。預言者サムエルにとって、このサウルという人物は希望の星でした。しかし、サウルは力を増すに及んで、従うことができなくなってしまったのです。神様のおことばを受けとめ、そのおことばに従うということができなかったんです。わたしは最後の一句が、今日、この朝もそうでしたが、悲しく響いて来るのです。「サムエルはサウルのために悲しんだ。また主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた。」せっかくイスラエルの王として立てた、そして、神の民がこの王を通して栄えていくように期待したのですが、その期待が裏切られたのです。預言者サムエルの心は、悲しみで痛みました。いや、それにもまして神様の御心は、もっと悲しかったのです。信仰生活というのは実にこれなんです。信仰生活の世界は1人相撲の世界ではないのです。あなたがイエス様を信じます、あなたが奉仕します、あなたが働きを興します、そのようなあなただけの世界ではないのです。信仰生活というのは、神様とあなたとの関係です。

サウルが選ばれた、サウルが王となった、サウルが戦った、サウルが戦に勝った、それだけではないのです。そのうらに神が選び、神が立て、神が用い、また神が祝福を与え、あるいは今日の御言にありますように、神は痛み、神は悲しみ、神はお捨てになった。ですから、この15章を読むたびに神があなたに対して、どのような御思いを持っていらっしゃるか、そのことを考えていただきたいのです。神様があなたを喜んで下さるか。「わが選んだわがしもべを見なさい。わたしが立てたこのしもべを見なさい」と言っていただきたいですね。イエス様がバプテスマをお受けになられた時、またヘルモン山にて変貌なさった時、天から声が聞こえました。

「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」(マタイ3・17)
「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け。」(ルカ9・35)

わたしたちは只今この修養会に集まって讃美歌をうたい、ささげるものをささげ、教えられた通りに従っていきます。この朝この時点において、神様があなたをごらんになられた時、あなたはどうでしょうか。この15章、最後の一句は悲しいことばですが、「サムエルはサウルのために悲しんだ。また主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた」。イエス様がバプテスマを受けられた時のあの声のように「わが喜びだ、わがお気に入りだ」と言われるあなたでしょうか。あるいは、この悲しみをおぼえさせる者でしょうか。ただ「自分だ、自分だ、自分は祈っている、自分がやっている」そういうふうな、ひとりよがりの信仰生活か、あるいは、神様がごらんになって「心かなう者である」と認めて下さるわたしたちでしょうか。

奉仕もそうですよ。奉仕をなさっていても、自分の喜び、自分の楽しみ、自分の満足。自己満足でやっている奉仕、これは、神様が憂えていらっしゃる。あるいは、あなたの牧者である神の僕が「そんなことはしない方がいいのだがなあ」と思っているのにも拘らず「いや、先生、わたしはこうした方がいい、こうやりたいんですよ。わたしはこれが好いているんですよ。これがわたしの方針です」、これは全くひとりよがりのやり方です。そこには、神の御旨はなく、御旨はどこかへ行ってしまっているのです。今日、この箇所で、神の預言者の痛み、神のハートのうずき、それはどういうところに原因があるのでしょうか。この15章から見ていただきたいのです。

神様がサウル王にひとつの命令を出されたわけでしょう。それはアマレクを滅ぼし尽せ、という命令です。15章の3節、「今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼし尽せ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ」というわけです。「皆殺せ」これが神様の御思いだったわけです。ところが実際はどうでしたか。このサウル王は、やはり命じられたとおり滅ぼしました。しかし、全部はやらなかったのです。ここに書いてありますね。8節を見ますと「そしてアマレク人の王アガグをいけどり、つるぎをもってその民をことごとく滅ぼした。しかしサウルと民は、アガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに、小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した」。これは、神様の命ぜられたこととは違うわけです。わたしはこのところにクリスチャン生活のひとつの姿を見るような思いがいたします。神様がこうしなさい、かくありなさいというように、神様の御心は明確です。決してあいまいなものではないのです。明確に語られているのですが、明確なメッセージに対して、明確に応答しなければならないのですが、中途半端な答えしかしない、いいかげんな応答をする。これは従わないのと同じなのです。「99パーセントわたしは従いましたから、わたしは立派です」と言いますが、しかし神様は百パーセントの服従をお求めになります。わたしはこの事を考えますときに、ちょうど電気の差し込みと同じではないかなあと思います。コードを差し込みに入れたら電気はつくのですが、あと1ミリのところで止めると電気はつかないのです。そこまで近づけても駄目、つながらないと電気は通じないのです。神様にお従いする場合でも、わたしは神様のことばに99パーセント従ったからこれはいい線いっていると思っても、それはあと1パーセント残っていることになりますから百パーセント従わなかったのと同じです。

このサウル王様は、つまらないものを滅ぼしつくした。サウル王はなぜ99パーセント従ってあと1パーセント残したのでしょう。御言を見ますと、ひとつは「民が」と言っています。その原因を民に帰しています。自分もその通りなのですが、この不服従の理由を民がということばで弁解しているのです。いうならば、「いや、家族が色よい返事をしないものですから」「わたしの夫が無理解ですので」「わたしの妻がね、ダメなんですよ」「いやわたしの教会のね、誰々さんが賛成しないから…」、これは信徒の皆様だけではないと思います。伝道者である神様の僕として奉仕している者も、あれだこれだと、残された1パーセントの不服従の理由を「民が」というひとことばで代表するように、他の人のせいにしてしまっているのではないでしょうか。今回の修養会においても講壇より神の僕を通して、生命の御言が語られているのです。その時、「わたしはこれまでこんなことはすでに聞きました。前回にも同じことを聞きました。いや、この修養会に来る直前の礼拝においてもすでに聞いて来ました。しかしわたしはダメです。すなわち民が、家族が、友人が、会社が、先輩が…」。これがサウルのとったような態度です。ある程度は従ったが、ちょっとだけ従わなかったという、残されたものの理由をあげるのです。
第2番目の理由を見ていただきましょう。

17節です。「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。」これが第2番目の理由です。あなたは自分自身についてどのような評価をしていらっしゃるでしょうか。「神様、わたしはクリスチャンのひとりで、ほんとうにかけ出しの伝道者でございまして」とか「かけ出しの信者に過ぎず、役員でもなんでもございません」とか、ともすれば、「わたしはたいした者ではございません。お恥ずかしいような信者でございます」と。いいえ、神様は、あなたをお恥ずかしい信者としてお選び下さっているのではありませんよ。このサウルの間違いは、自分は小さいと思っていることですね。けれども

「あなたは諸部族の長ではありませんか」
「あなたは神の子ではありませんか」
「あなたは神様によって立てられた器ではありませんか」
「あなたは神の宮ではありませんか」
「あなたは神の証人ではありませんか」

なんとすばらしい、なんと光栄に満ちた選びであり任命でしょうか。それだのに

「わたしはかけ出しで、信仰もあまり進んでいませんし」「どうぞ証しをして下さい」と依頼すると、ともすると、「いや、わたしはあんまり恵まれた信者ではありません」、いいえ、神様は、あなたにこういってほしいのです。

「わたしは神に愛されたものです」
「わたしはイエス・キリストによって選ばれたものです」
「わたしは神の皇太子です」

あなたがこんなすばらしい光栄に満ちた選びの中にあるということを知らない、それは主を知らないのだとヨハネの第一の手紙に書いてあります。未信者はわからないかも知れないけれども、クリスチャンお互いは「わたしは神のしもべです」「神の子供です」「神の世嗣ぎです」「神の器です」「神の証人です」。不徹底な服従をしたサウルの原因はこれなのです。あなたは、自分では小さいと思っていますが、これは間違っているのです。わたしがかつて森山諭先生からお聞きしたお話ですが…。ある時、皇太子殿下が侍従をしたがえて町を歩いておられた。するとどこからともなく石焼き芋のにおいがプーンとしてきた。その時、皇太子も人の子、おいしそうだなあと思って、においの方へ行こうとした。すると侍従が服のすそを引っ張って「殿下、ご身分」と言ったそうです。皆さん、「殿下」です。普通のワンパク小僧ならば「ワァーイ、石焼きいもやあ、おじちゃん、石焼きいもちょうだい。まけといてね」と言って買うかもしれない。しかし皇太子には、ゆるされないのですよ。ですから侍従が、「殿下、ご身分」と言いながら服のすそを引っ張ったと言うのです。わたしたちは、自分の身分、自分が立てられた地位に気付かなくてはなりません。サムエルは神の命に従って、サウルを王として立てました。サウルは自分では小さいものと思っても、「あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか」。

わたしはこの言葉をしばしば、自分に言い聞かせるのです。「わたしはね、つまらない伝道者のひとりに過ぎません」「わたしは、大勢いる伝道者のはしくれでございまして」などと言う。いいえ、そんなことを言ったり、思ったりしてはいけません。「はしくれ」とか「つまらない伝道者」とか、「わたしは、もう小さなものでございまして」とか言わない。「わたしは神様によって、立てられたのだ」。あなたもそうなのですよ。あなたが神によって立てられた身の光栄を、しっかりと自覚していなくてはいけませんよ。家に帰った時でも、学校に行った時でも、何処へ行っても、「諸部族の長ではありませんか」。

第3番目の理由は何か、彼の服従はいい線まではいったのですが、それで終ってしまった。その理由は、つづいて18節です。「そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた」「使命を授け」これです。使命です。使命は神から授かったものなのです。このサウル王には神から使命が与えられていたのです。神からの使命を全うしたパウロ。使命を全うした主イエス様。あなたも使命が授けられているのです。残念でしたねえ、サウル王は。サウルが不服従のためにサムエルは悲しんだ。そして、「主は悔いられた」とありましたね。なぜか、サウルは使命に目覚めなかったのです。わたしは神に立てられた王である、という自覚がなかったのです。「この時のために、このことのために」とのエステルのことばがありますね。「我死ぬべくば死ぬべし」。クリスチャンは伝道者も含めて、皆、神様から与えられた大事な尊い使命があるのです。これを皆忘れるのです。あなたはあの職場に、あの大学に、あの高校に、使命をもってつかわされたのです。使命をおびてね、あなたが家庭につかわされたという意識があったならば、かなり違った言動をなさると思うのです。

創世記12章を見ていただきましょう。ここには、イスラエルの父祖、アブラハムの選びが書かれております。では、お読みいたしましょう。(1-3節)時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。」これがアブラハムの選びのはじめです。ここで気をつけていただきたいのは「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」とここで終わっていないのです。さらに「あなたは祝福の基となるであろう」と続いているのです。「あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしが、あなたがたを選んだのである」ここまでは皆よく言います。ああ、わたしは救われた、わたしは選ばれた。感謝だ、ほんとうに恵まれている、そこで終わってはいないのです。「そして、あなたがたを立てた」。ここに書かれているように、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」で終わらないで、「あなたは祝福の基となるであろう」。すなわち「基」とは基礎です。始まりです。この使命を自覚しましょう。

あなたが家庭の中でひとり救われているということは、その家庭を祝福しようとして、神はあなたをお選びになられたのです、一粒の麦として。そしてその一粒の麦が死んだ時に、多くの実を結びます。そのために、神様はあなたを祝福し、それだけではない、あなたもあなたの家族も救われるのですよ。ぼんやりしていてはなりません。せっかく救われても、主に従わないところに、神様の祝福がその家庭に、夫に、妻に、子供に、姑に、及ぼうとしているのに、祝福がとどかないのです。「祝福の基」として選ばれている。祝福をもたらす器として、使命が神様から与えられている。また、キリストの体である教会を祝福するために選ばれているのです。使命に目ざめているとわたしたちは変貌してくるのですよ。家に帰っておられても、この家族のために尊い使命を与えられているのだ」と思うと、わたしたちの祈りが違ってくるし、かける言葉も違ってくるのです。振舞う行動が違ってくる。だからこのサウルの失敗は何か。民がどうのこうのではない。自分が「選ばれた」という自覚がない、神から与えられた使命にぼんやりしているのです。ここにサウルと同じあやまちを犯していないだろうかというのが、この朝の皆さんにお伝えしたいわたしのメッセージです。

神様は、あなたのために血潮まで流して、選んで、救って、祝福の基としてお立て下さっているのです。感謝しましょう。今日でこの修養会は終わります。しかし、修養会が終わったときに、「ああ、よかった、恵まれた」、大半の方々はこれで終わってしまうのです。そこで、今回、皆様に申し上げたいひとつのことは、この修養会があと残りするために、あなたははっきり決断して下さい。御言をしっかり握らないと駄目ですよ。恵みの座に出て行って手を置いて祈ってもらうことはすばらしいことです。しかし、その手のぬくもりも忘れます。神の御前にわたしたちは、御言によって取り扱われる。そして御言をしっかり握ることです。そして、あなたが示された罪は、きっぱりと悔い改めなくてはなりません。

集会でも、今までいいかげんな気持で出ておった人は、この香登修養会において、「わたしは礼拝はきちんと守ります。わたしには、神様から使命を与えられています。わたしは神の僕です。わたしは神の皇太子だ」。それなるがゆえに、教会に対する姿勢、礼拝に対する姿勢においても「ああそうだなあ、ほんとうによく休んでいたなあ、まあ、いい線まで守っているけれども…」というようなものではなく、もう一度今日、神の御前できっぱり悔い改めて決断をしましょう。神への献金においてもそうですよ。恵まれた、恵まれたと言っていても、あなたの教会の牧師先生に、香登修養会から帰ってきたあなたが「先生、大変恵まれました。先生も行かれたらよかったのに」と申し上げても、それは結構なことかもしれませんが、恵まれたと言うことは口ばっかりじゃ駄目です。献金の面においても光が通っていないと。また祈祷会、家庭礼拝などの具体的な面においても決断がなされていないと、この修養会の恵みも、「ああ、よかった、また来年が楽しみね」「あなたも長生きしてよ」などと言う程度で、次の年を待つようなことで終わってしまうのです。そうなってもらいたくないのです。信仰をもっていただきたいのです。

具体的なところに光を通していただく。今日このメッセージによって示されているけれども、ここだけは残しておくなどと言わないで、教えられているなら今日このところから従いましょう。明日では遅過ぎますよ。帰ってからでも遅い、スタートは今日このところからです。お祈りいたしましょう。

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