〔7〕 愛する者への神の応答 ( 7.13/2006 )
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰ってくる。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなた御自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしを遣わされた父の言葉である」。
(ヨハネによる福音書14章18節-24節)

特に21節のお言葉に導かれております。「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は…わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。このイエス様のお言葉を、わたしはここ何年でしょうか、特に自分の家族のことを通して大変恵みを受けているのです。ちょうど長女が大学受験の時、そして、一番下の子供、男の子ですが、これは今年高校受験をする時、お祈りをしている時に、いつもこの御言が与えられるんですね。「我を愛するものは我が父に愛せられん、我もこれを愛し、これに己をあらわすべし」牧師の家庭だからと言ったらそれきりですが、やはり子供にとっては受験というのは、ひとつの大変な時なのですね。皆さんも経験をされていることだと思うんですが、試験が近づいてくる、今まで一緒に教会へ来ていた子供達が、ポツポツ、ポツポツと歯が抜けるように礼拝や祈祷会にも出てこなくなってしまう。そういうような時に、自分の子供だけは、「牧師の子供だから」休んではダメ、というわけではないのですが、やはりずっと変わらないで礼拝の場や祈祷会の場にいつものように、いつもの所に出席するわけです。だんだん近づいて来て、もう試験だという時に、子供も徹夜の勉強を繰り返しているわけであります。
また、受験の大きな圧力と、精神的な圧力、そういうようなものが、グッとかかってくるのですね。本当にもう心身共に大変な時です。しかし、礼拝のため、また祈祷会の恵みにもあずかるべく集会に出てくるわけです。集会を休まない。どんなことがあっても礼拝も祈祷会も休まない。それが一貫して小学生、また、中学生の時も高校生の時も、そして大学受験直前でも、また今年は中学生の子供が高校受験の前夜の祈祷会にも休まないのでした。わたしはその子供の姿を見ながら神様の前にお祈りすると「我を愛する者は、我が父に愛せられん、我もこれを愛し、これに己を顕わすべし」、この御言を通してですね、非常な慰めと、励ましを与えて下さった。子供にそんな事は言いませんけれども、とりなしの祈りをしている時に、この言葉が与えられた。「わたしを愛するならば、我が父に愛せられ、わたしだって愛しているんだよ。そして、わたし自身を愛する者に対して、神様の愛、神様のご真実、神様の赦し、神様の全能性も合わせて顕わしてあげよう」とこうなるわけですね。長女はもう大学4年生ですが、今2番目が大学2年生、そして長男は今年高1になった。その子供は子供なりに、信仰の戦いをもって礼拝の場に出る。それは、「主よ」わたしはあなたを愛しています。わたしはあなたを信じています。あなたこそわたしのより頼むべき生ける真の神様です」との信仰の告白に対して神様は、「わたしもあなたを愛しているよ」との御言のあかしをして下さり、御言通りに、すばらしい祝福を体験いたしました。

その愛しているという言葉は、いわゆる「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が1人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」というあの世界万民、全ての人々を愛しているというあの愛とはもうひと味違うとわたしは思うのです。恵みによって愛されている。それはベースであり、基本でありますが、その神様がわたしたちを愛していて下さる、そのことは確かに永遠から変わらないのです。しかし、その神様の愛、神様の恵み、神様の豊かな御取り扱いを受けて、わたしも「神様、小さい小さい存在でありますが、救われた罪人でありますけれども、わたしの主よ、あなたを愛し奉ります」と主の前に愛の告白をする。そして「主よ、わたしも愛の証しをあなたに捧げます」と言って近づくと、「いやあ、わたしもあなたを愛しますよ」と言われるこの愛は、一般全ての人を愛しているという愛とは違う愛。わたしはこれを「プライベートな愛」と呼ぶのでありますが、主を愛する人だけしか知ることのできない神様の深い、また本当にプライベートな、個人的な親密な愛なんです。皆さんが神様を愛していらっしゃるということはすばらしいことです。

わたしたちが赦され、わたしたちが潔められ、わたしたちが新しくされ、その新しくされたあなたは何をなすべきですか。何をやるべきでしょうか、愛していて下さるその主に対して「わたしの主よ、あなたを愛します」と言うべきではないでしょうか。そうすればイエス様も「わたしを愛する者は我が父に愛せられ、わたしもその人を愛します。そしてわたし自身を顕わしましょう」と仰せられるんですね。主はわたしたちを愛していて下さいます。「限りない愛をもってわたしはあなたを愛している」と。限りのない愛とエレミヤ311章の3節に記されておりますが、限りのない愛というのがあるでしょうか。わたしたちお互いの愛はいつも限りがありますね。限度付きです。制約付き、条件付きの愛ですね。

ところがわたしたちを愛していて下さる神様の愛というのは、確かに限りがない。もし限りがある愛であったならば、わたし自身は今日皆さんの前に立つことができません。もうとっくに「何か以前、福岡という所で伝道していた人がいたそうだ。今どこかに行方不明だ」、とかいうようなかたちになってしまう。限りのない愛。仏の顔も3度とかいいますが、イエス様は7度を70倍するほど赦してやりなさいです。わたしが、そして皆様が今この恵みの座に侍ることが赦されているのは、限りない、、罪を犯したならもうだめだというのじゃなく、「わたしは限りのない愛をもってあなたを愛している」という愛のゆえです。とことん、最後の最後まで愛し続けてゆく、うらぎられても、うらぎられても。ペテロは、「黄泉よみにまでも死にまでも、イエス様、あなたと共ならどこまでも行きますよ」と言った。しかしすぐそのあと、「いいえ、イエス様なんて知りません。もうあの方はわたしとは関係ありません」と言ったんですね。「イエス、振り返りてペテロに目をとめたもう」、さあ、言わんことじゃない。なんだお前は、と言われてもいいんですけれども、その通りなんですから。しかしイエス様は、その弱いペテロに振り向いて、言葉ではない言葉、愛のまなざしをかけて下さった。これは限りない愛ですよ。言葉で愛しているよと言っているのではありませんけれども、まなざし(目は口ほどにものを言い)、その愚かな弱いペテロに限りない愛のまなざしをかけて下さっているんですね。

また聖書を見ますと、不動の愛というのがございます。限りのない愛というのがあれば、イザヤ書の54章の10節に、「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない」。山も丘も移らないというのが大前提です。今日はブルドーザーをいれてですね、たちまち、山が平地になるというのをよく見かけますが、聖書が書かれた時代においてはそういう事は考えられない。山は移らない、丘も動かない。これはもう当り前です。しかし、千に一ぺん、万に一ぺん、いや、たとえそういうようなことがあって、不動のものだと思われる山が移り、丘が動いても、「わたしのあなたに対する慈しみは移ることはない」と神様はいわれるのです。あなたに対しての神の慈しみは動かないと言って下さる。そういうような神様の愛は、どういう形において証明されたか。それは、「ここに愛がある」と言われるヨハネ第1の手紙の4章ですね。わたしたちが神を愛したのではない。神がまずわたしたちを愛して、わたしたちのためになだめの供え物として下さった。十字架に御子イエス・キリスト様がはりつけになった。その所において血を流された。この十字架にこそ永遠の愛が、不動の愛が立証された。十字架が今もわたしに「あなたを愛している。命までかけた愛だよ」と語っている。あなたを愛する人は、多くの場合、「わたしはあなたを愛してますよ」と言ってもですね、その真相を知らないんです。わたしたちの内側を知らないからですね、学歴を身、家を身、顔を見、外側を見て、ああよさそうだと言う。わたしたちがキリストによって救われていない者であるならば、恐ろしい罪人ですよ。しかしわたしたちを愛していて下さる神の愛は命がけの愛なのです。「人がその友のために命を捨てる、これより大きい愛はない」こんなにまで愛していて下さる。永遠ですとか不動とかいう言葉で表すことができますが、それを事実として、出来事として(抹消することができない歴史的な出来事として、)現わして下さったのが十字架なんです。永遠の愛よ、豊かなる愛よ、また不動の愛よとわたしたちはキリストの愛を讃美する時、それは十字架において完全な形で現わされているんですね。ですから、十字架、十字架と喜び感謝をささげるわけです。

今、わたしの委ねられている教会では、会堂を大増改築しているんですね。ちょうどあと1カ月で完成するんです。前に建てた礼拝堂が十年たちました。狭くなって来ましたので根本的にやり変えてしまっているんですが、その塔屋の上に十字架をかかげることになって、いろいろ業者と話しておりました。今あげている十字架は高さが2間半あるんです。塔屋の上に2間半の高さの十字架。20センチ角の鉄骨で6ミリの厚さのものです。鉄工所から大型トラックで運んで来て、教会の庭まで来た時に、大工さんや現場監督さんは手伝わないんですよ、下ろすのを。「これはあまりにも大きすぎて、こんなのは人の手で下ろしていたら怪我しますから」、そう言って皆そっぽを向く。しかしわたしは施主ですからね。「わたしがお願いするんですから、なんとか大工さんや皆さんを集めて下ろして下さい」と言いますと、「それじゃ、みんなやろう」。大工さん達が「ああ、これはレッカー車を呼んでこないとだめですよ」と言われるような十字架。わたしは何でも大きいのが好きなんですがちょっと大きすぎたかな。それで何人かで、よいしょよいしょと、最後はもう引きずり下ろすこともできないから、立ててパターンと反対側に落とし込んだような形になりました。「確かにこれは大きすぎたかなあ」。(笑)塔屋に上げる時は、人の力では動かせないので、20トン積みのクレーン車を持ってきて、ぐうっと吊り上げて塔屋につけたわけです。けれども、上へ上がりますとですね、堂々たるものです。ぱあっと大空にそびえるようになりました。十字架は教会の看板であります。顔であります。そしてわたしは、その大十字架は150万福岡都市圏の人々に対する「神の愛ここにあり」という宣言であると思っているのです。十字架を仰ぐ時、そこに神が我らを愛していて下さる愛が宣言されている。夜となく昼となく、その十字架は語り続けているんですね。そのような神様の愛、豊かなる愛、永遠の愛、十字架の愛はわたしたちに何を要求するのでしょうか。それは「わたしを愛しなさい」と語っていて下さるのです。

シェマーといいますけれども、「イスラエルよ聞け」という有名な言葉がありますね。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ。』これがいちばん大切な、第1のいましめである。」(マタイ22・37)わたしたち人間は本来神様を愛する者として造られたのです。わたしたち人間が想像された目的というのは、わたしたちが作り主である神様を愛する者となることです。ところが、わたしたちは神様を愛さないで、神ならざるものを愛するようになった。本来愛すべきお方を愛さないで、愛してはならないものをわたしの心の中心にしてしまった。しかし十字架によって罪が赦された。内在の罪が潔められた。そしたらわたしは何ができるのか、何をやろうか。そうではない。他の何ものにもまさってわたしたちがなすべきもの、あるべき姿、それはイエス様を愛するということですね。これは本来の造られた目的にわたしたちが立ち返ることなのです。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして主なる汝の神を愛せよ」です。皆さんどうですか。潔められたわたしたちは、そういうように心をつくして主を愛していますか。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主よ、精神をつくして力いっぱい、いやわたしの全存在をあげて、主を愛するという形になって現われているでしょうか。

イエス様が昇天なさる前に、愛する弟子シモン・ペテロに語られた言葉は何ですか。「汝、我を愛するか」ということでした。3度、「主よ、あなたを知りません。知りません。知りません。」と言ったペテロが、そのそむいたペテロが回復された時に、イエス様がペテロにかけられた言葉は、「汝、我を愛するか」「汝、我を愛するか」「汝、我を愛するか」愛する心があったら問題ないんです。主を愛する心があれば迫害も、どんなに燃える炎のような迫害のただ中でもだいじょうぶです。しかし愛が失われた時だめになります。ですからイエス様はペテロに言われた「汝、我を愛するか」「主よ、あなたは御存じですよ。わたしはあなたを愛していることを御存じじゃないですか」とペテロは言いましたね。この朝、「あなたはわたしを愛するか。わたしはあなたを愛しているんだよ。あなたはわたしを愛するか」と聞いていらっしゃる。あなたは何と答えますか。愛するところにすばらしい奇跡が起きてきますよね。ナルドの香油を捧げたあの女性。ナルドの香油は3百デナリ。愛のない、イスカリオテのユダにとっては3百デナリの香油は無駄なこと、もったいない、そんなにまでしなくてもいいものと思えた。しかし、神を愛する愛のあまりに、あの婦人はその愛ゆえに、値高きナルドの香油を惜しみなく主の御頭に注いだ。石膏のつぼを砕いたと書いていますね、こわしたと。こわしたらどうなりますか。ナルドの香油が全部あふれて流れてしまうんですよ。けちな考えだったら、2、3滴、ちょんちょんとして、それでイエス様の御頭にぬることもできるんですね。

しかしこの婦人は3百デナリ、今日で言うなら3百万円もするような尊いナルドの香油です。(1デナリは労働者の1日分の賃金です。)惜しみなくこわしてこれ以外の時に、これ以外の所では、この方以外には使いませんと。これが愛の告白ですよ。また別な時にも使いましょうかといって取っておくのではないんです。もうこの時以外に、わたしは使う時を持ちません。あなた以外にこのナルドの香油を注ぐべき方をわたしは持っていません。それでナルドの香油の入っている石膏のつぼをこわしてしまった。注ぎつくしたんですね。イスカリオテのユダは裏切ろうとしている心がありますからね、「無駄だ。もったいない。他の使い道があるじゃないか」と言いましたが、婦人は惜しみなく注いだのです。イエス様は、「この女はできる限りの事をしたのだ。…わたしによいことをしたのだ」。何がイエス様の目に、イエス様の心に美しく映ったかといいましても、その1人の女性が、1人の魂がイエス様にすべてをかけて愛するということほど、イエス様にとって美しく映ったことはないですね。だから現代語の英語の聖書を見ますとFine and Beautifulという言葉を使っています。この女がしたのはわたしにとってFineでありBeautifulですよと。「爽やかにして美しい」と言っておられるのです。「わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」

一方、愛するということは、わたしたち自身が救われ、赦され、神の民となり、神様の所有となったわたしたちが、神様御自身を愛することであります。「主よ、わたしもあなたを愛します」というわたしに対して、主は、己を顕わして下さる。己を顕わす。最初に申し上げましたがそれはどういうことですか。コリント第1の手紙の2章を見ていただきましょう。神を愛する者達に対する神様の己を顕わすとはどういうことか。では読んでみましょう。6節から。「しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者達の知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者達のうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。しかし、聖書に書いてある通り、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、御自分を愛する者達のために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊は全てのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。」神は御自分を愛する者達のために応答された。神の愛に対してわたしたちがまた応答するならば、神様もまたわたしたちに対して応答して下さる。神を愛する者達のために、御自分を愛する者のために、神は目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを備えられた。これまで隠された奥義としての知恵。それは天地創造このかた隠されていたけれども、世の終わりに現わされた知恵とは何か。それは主がわたしの内に生きて下さるという世界です。ただキリストがわたしの内に生きて下さるというそ・・の言葉ではない、そのリアリティです。主が我らのために命を捨てて下さった。それによってわたしは愛がわかった。わたしも主よ、愛します。主を愛する時に、また主がわたしのうちに、愛する者の内に己を顕わす。すなわち内にあって生きて下さるという、プライベートな愛と申しましたが、深い主との交わり。それは外側にある主じゃなくて、内にいますキリスト。これがリアリティなんです。ドグマ(教義)じゃなく、そういう信仰の概念ではなくして、内にいますお方として自らを現わしていただけるんです。

第2の恵みは、己を顕わすと言われることでありますが、ローマ人への手紙8章にも愛する者達に、御旨によって召されたる者のためには、全ての事が益となるを我らは知るというのがありますね。28節です。「神は、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」何でもかんでも全部よくなると言ってるんじゃないんですね。ここをよく読むと、「神を愛する者達のため」に、全ての事を益にしてあげようと言ってるんですよ。だからわたしたちは「塞翁が馬」式のように、すべてが調子よくなりますよというのではない。神を愛する者、御旨によって召された者達のために神は働き、主の愛がわかり、主を愛しますという人達のために、万物を造られた神は、森羅万象ことごとく御支配し、動かして益にして下さる。この神様の手の業はすばらしい。手の業はわたしたちの考えではわからないことがありますが、結論は何か。益である。すべては神を愛する者達が「ああよかった。さすがは神様。さすがは主。十字架によって、わたしたちを愛しておられる神様だなあ」というような働きをして下さるんですね。

今、礼拝堂建築中だと申しあげましたが、6、7、8、9月、急ピッチで4カ月でやって下さいと言うんですから、かなり無理な注文を業者にしているんです。設計事務所と設計についていろいろ交渉を続け、図面ができあがると今度は建築会社と見積りのことで交渉するわけです。「いや、そんなにしないで下さい」「いや高すぎます」とか「これは入れてほしい。これは入れていくらにしてほしい」とか交渉する。いよいよ交渉がまとまって契約する段階になりまして、大事な事にわたしは気づいた。今まで、1階をやっている間は2階を使い、2階をやっているうちは1階を使うというような軽い考えで建築の準備を進めてきたのですが、契約の時、「それはだめ。そういう事は1切できません。この工事はそんな簡単な工事じゃないですから、できません」と言われた。後3週間すれば、集会所がない。市民会館の大ホールなら1800人から入るところですが、千8百人まではまだ教会が成長しておりませんから無理ですが、390人ぐらいの小ホールがあるんですね。日曜日の朝は特に安く借りれると聞き、交渉に行きましたが、そんな安い所はずうっと1年前からつかえております。予約済みということです。その次、じゃあ、あの区民センターのホールはどうだろうか。わたしの教会があるところは城南区ですが、わたしが住んでいる牧師館は南区という所。まず南区のところに電話しましてもだめ。中央区民センターもだめ。西区民センターもだめ。それじゃあ、あの百道ももちパレスという所、勤労青少年センターはどうだろうかといって、そこもだめ、今度はお金が高くなるけれども筑紫会館というようなりっぱなホールがあるんですが、そこもだめ。そして幼稚園はどうだろうか。そこも頼んだけれどもだめでした。とうとう行き詰ってしまった。「先生、プレハブでも建てたらどうですか」「そうねぇ。プレハブでも建てようかね。しかしねぇ、下の駐車場に建てるのもいいけれども、この暑い時に、子供が病気してしまうよ」。建設会社に話してみると、プレハブはありますから、会社の駐車場に建てますかと言われましたが、それもちょっと遠隔すぎる。それでその時祈って、どうせいよいよの時には「家は雲なき大空のもと」でやろう、傘でもさしながら梅雨の時は集会しようか、もう最後は、「皆思い煩わないでよろしい。わたしが祈ってやりますから」ということになりました。梅雨期と真夏に大空の下でそういう事はできないことはわかっております。祈りつづけていますと、神様は導いて下さったのであります。

今そこをお借りして、礼拝を毎週捧げています。礼拝のため九州聖会委員の1人である方のお家を訪ねました。「このたび、いよいよ会堂建築をすることになりました。そして今度会堂ができあがると、こういうようになってこうなります」と言って、その方の所に行きまして説明した。「ところで先生、御礼拝はその間、どうなさるんですか」と言われました。「はい、そのことで、実は今日御相談におうかがいしたのです」「わたしの家でよろしかったら使って下さい」そう言われた所は、そうですね、この教会ぐらいあるんですね。和室の応接間なんですけれど、ね。屋敷が1万坪なんですよ。福岡市城南区にありますが、ちょっとした森ですよね。そして人を歓迎したりパーティーを開くためにある応接間というのはこの教会堂ぐらい。「先生、2百人くらいはちょっと難しいかもしれませんが、百人少々ならこれでいいんじゃないですか。ソファはあちらに片づけ、そして冷房はちゃんとついているところです」。わたしは御名を崇めました。そしてその方の教会を訪ね、牧師先生にも祝福していただき、お借りする事になりました。わたしがその時に教えられたことは何か。「すべての事、相働きて益となる」。神を愛する者、神様を愛してやっていくその世界に、神様は必ずその愛する者のために己の全能性を顕わして下さる。

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