B.F.バックストン師について ( 9.5/2006 )
B.F.バックストン(Barclay Fowell Buxton)

日本のプロテスタントキリスト教の誕生に多大な貢献をし、日本イエスキリスト教団の誕生に至る礎を築き、内村鑑三に「人類の花」と感嘆させた、偉大なキリスト教伝道者・バックストン師に関する記述が、ホームページ上で紹介されることが非常に少ないと思いましたので、ここに簡単に師の紹介を書かせて頂きたいと思います。このサイト管理の一人がこの文章を書いておりますので、何分その時代に生まれておりませんから、もし誤りなどありましたら、ご指摘ください。


■バックストン家の家訓

「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ」 (旧約聖書 コヘレトの言葉『伝道の書』9章10節)

■バックストンの家系

◆祖父 Sir Thomas Fowell Buxton(1786-1845)

Sirの称号が与えられた英国貴族。奴隷解放論者として知られ、「Dictionary of National Biography」の専任執筆者でもあった。(Biographyは伝記、人物伝)

◆父 Thomas Fowell Buxton(1822-1908)

Sir Thomas Fowell Buxton の6番目の子供として生まれる。ケンブリッジ大卒(M.A)、justice of the peace(通称JP、治安判事、地方行政を司る。無給の名誉職)を勤める。その後 Hertfordshire の High Sheriff(州長官)を歴任。


◆本人 Reverend Barclay Fowell Buxton あるいは Rev Barclay Fowell Buxton (Reverend は 牧師、伝道師、あるいは単純に師と訳する)(1860-1946)

Thomas Fowell Buxton の8番目の子供として生まれる(注:日本伝道隊のページでは13人兄弟の11番目と書かれているが、家系図には8人兄弟姉妹の8番目となっている)。ケンブリッジ大卒(Trinity College M.A)、英国国教会所属し副牧師を経験、1890年に自費で日本に宣教師として来日(詳細は下記に)。1902年子女の教育で英国に帰国するも、1913-1917年再度日本で奉仕。1921-1935年にHoly Trinity教会のVicarを勤める(vicarというのは非常にイギリスらしい用語だと思うのですが、要するに牧師のこと。カソリックの神父などと対比して、英国国教会の教区を統括する聖職者のことで、つまり教区聖職者)。彼の広大な旧邸宅は、現在宣教師養成のオールネーションズ神学校になっている。英国に帰国後も日本の伝道に対する情熱は変わらず、英国内のJEB支援組織でもある、British Home Council 内の英国JEB(後にJapan Christian Linkと改称)の議長の職責を全うされ、その志は四男の Barclay Godfrey Buxton に引継がれました。


■B.F.バックストンについて

これは能力によらず、権勢によらず、わたしの霊によるのである。 (ゼカリヤ4章6節)

日本伝道隊の創立者であり、関西聖書神学校ならびにイエスキリスト教団の礎を築いた偉大な伝道者でもあります、バークレー・F・バックストンは1890年に自費の宣教師として来日しました(英国の記録では、英国国教会とは independent あるいは honorable としてと書かれている。裕福な家庭であったにしても、そこまで彼を駆り立てたものは、上記の聖書の一節だったのかと想像します)。

それ以前にアメリカでは、南北戦争後の進化主義思想、自由主義思想の普及に伴い、教会の教勢の停滞に危機感を抱いたメソジスト教会の牧師たちによって起こされたホーリネス運動があります。1867年ニュージャージー州のヴィンランドで行われたキャンプミーティング(野外集会)がこの運動の始まりと言われてます。この集会は、 J.A.ウッドの『全き愛』の主張に共鳴したメソジスト教会の牧師、J.インスキップと、W.オズボーンらが中心となって企画したもので、数千人もの聴衆を集めたこの集会のなかで、キャンプミーティングやクルセード(伝道集会)の重要性が強調されました。やがて全米のメソジスト教会では、同じようなキャンプミーティングが開かれるようになり、1870年代、このホーリネス運動は、多くの有能な説教者を生み出すようになりました。1880年代には、長老派、バプテスト派、会衆派にも影響をあたえ、地域的には、カナダ、イギリス、インドにまで波及し、「ケズイック・コンベンション」の名で知られる集会も、この頃イギリスのC.バタスビーによって始められ、現在も世界各地で巡回的に行われています。

バックストン師もこの運動に影響を受けた一人であったかと推察しますが、キリスト教のクルセードを最重要使命として考えていたのでしょう。当時彼は30才の妻と長男、その他の人々を伴い、一行9名で来日。日本聖公会により、島根県松江に伝道師として任命され、翌年(1891年)松江の赤山(あかやま)に自宅と集会場を自費で建てました。自費で来日、自費で集会場を建てた事は、まさに権勢に頼らずの言葉通り、意気込みの凄さを感ぜずにはおられません。

松江は宍道湖のほとりにある古い落ち着いた街並みの城下町で、松江城から眺める城内や街のたたずまいはすばらしいと言われてます。お堀のそばに古い聖公会の教会があり、その一室にバックストン先生の写真が飾ってあるそうですが、しかし、師はここにおられたのではなく、近くの赤山に大邸宅を構えておられたとの事。なにしろ、師は英国の貴族の出で何人もお手伝いさんを連れて日本に伝道に来られ、しかも師のもとには絶えず多くの有能な青年たちが出入りし逗留したりしていたのですから、大家族であったのに間違いないと思います。松江でもう一人有名な人と言えばラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がいますが、バックストン師とほぼ同時代に松江で中学の英語の教師をしていたと思いますので、多少の親交はあったのではと想像します。バックストン師はキリスト教会でこそお名前が知られていますが、赤山を訪ねる人もほとんどなく、ハーンが住んでいた小さな家は記念館になって毎日観光バスが通っている事、またホームページ上で言及されることがほとんどない現状を考えると、残念でたまりません。日本のキリスト教に多大な影響を与えた方に、伝道こそクリスチャンの使命と燃えた師に、・・・非常に考えさせられるものがあるのではないでしょうか?

話を遡りますと、日本の教会の黎明期に貢献した人の2人に、新島襄(同志社を創設)と師でもあるデービス博士(チェニー教会牧師)がおられます。1871年米国アンドバーの神学生だった新島襄氏に面会し、涙をながしながら日本伝道の依頼を受け(日本の必要急なるを聞くや、同情禁じ難く、当時三千万の民衆を全く自家の同胞と感じたり・・・と書かれてます)、後年の2人の友情はここに端を発します。博士は当時なお日本政府の外教に対する迫害があるを聞き及び、必死の覚悟で夫人を伴い、1871年(明治4年)11月来日し神戸に赴任されたそうです。当時は、すでに明治政府の時代でしたが、未だ江戸幕府のキリスト教禁止の高札が立てられたまま、暗黙の禁教時代でした。この高札を政府高官と交渉して取除かせたのが新島襄その人と記録に書かれてます。デービス博士が西部ヨーミング州チェニーという大変な田舎町で教会を建てた時、『博士は木材を集めて手ずから会堂を建設し、添ふるに牧師館を以ってせり。新婦は繊弱き身を以って之を助力したりという。』と記されてます。感慨深いものがあります。

こうして日本のキリスト教伝道の芽が撒かれました。当時存在したキリスト教伝道チームは、熊本の花岡山バンド、横浜バンド、そして、北海道の札幌バンドで、その中心メンバーは日本の若者たちでした。後にも書きますが、若者がキーワードです。彼らは神の御霊に罪を示され、十字架を仰ぎ、救われた者の喜びをもって出かけ、黎明期の日本のキリスト教に影響を与え、動かしました。ちょうどその頃、バックストンが島根県松江に到着し、伝道を開始したのです。「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。」とあるように、バックストンは当時の松江の人々と同じ視線、同じ状況に身を置き、雪が降る松江の町を一軒一軒、主イエス・キリストの救いを述べ伝えたと記録に書かれてます。まだその地では靴を履く人がほとんどいなかった時代です。バックストンは靴を脱ぎ捨て、草鞋履きで歩いたそうです。夏はまだ良かったでしょうが、山陰の冬の草鞋履きは、当時は当り前と言っても、現代の私たちから見ると相当な苦労に思えます。ましてや貴族の家系の生まれです、大変だった事は想像に難くありません。そのような環境にもめげず、主イエス・キリストの愛を説くバックストンの元に、多くの若者が集まり始めました。当時はまだ、「耶蘇」というキリスト教への差別的な言葉も生きていました。 『これは能力によらず、権勢によらず、わたしの霊によるのである。』、『すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ』バックストンの燃える思い、イエスキリストの救いを教える説教に若者は感動もし、導かれもしたのでしょう。前述したデービス博士も同様の献身的働きをされたと新島譲が書いております、

バックストンの働きは、その後の関西聖書神学校、日本イエスキリスト教団誕生に引継がれ、また日本伝道隊の発展へと続きます。小さな種が大きな花を咲かせました。

松江で誕生した四男の Barclay Godfrey Buxton はケンブリッジ大在学中第1次大戦に参加し負傷。第2次大戦に参加し再度負傷して退役(片足は義足だそうです)。日本伝道隊(J・E・B)の英国本部議長として師の意思を引継がれました。そしてその後も、日本のキリスト教会の若いリーダーを育て、交流し、指導を続けました。シャロームチャペルの牧師さんが直接生前の Godfrey Buxton に会われてお話をされたそうですので、お近くにお住まいの方は教会でお聞きになるのが最も良いと思いますし、遠くの方に対しては、将来このホームページに書かれると思います。

四男だった Godfrey Buxton が書いた本『バックストン師の生涯に於ける 信仰と報酬』(関西聖書神学校出版部)を読みながら、とある教会の牧師のホームページに書かれた一節を思い浮かべました。

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知人から「教会草創期を築いた人々の信仰は立派だったと思います。しかしこの頃の若い人の信仰は果たしてどうでしょうか。クリスチャンらしい生活をしていると言えるでしょうか」。牧師は反論出来ませんでした。首肯せざるをえません。そして、多くの若者が日本のキリスト教会をリードした時代、その時のリーダーはどのようにして若者を導いたのか、に思いを馳せました。これら黎明期の青年たちの信仰と現代を比較するとき、どうしても現代の青年の信仰は見劣りがします。100年前、冬の山陰松江で、雪が舞い散る路地を、素足に草履履きで伝道するバックストンの姿を、牧師はあたかも彼が生きて、目の前にいるかのように語りました。その場に居た全ての人が時空を超えた経験をしたことでしょう。牧師は、自分の怠慢の故に指摘されたような青年が出てきたのだ、ということへの悔い改めと、悲しみを込めて語りました。
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バックストンが献身的に日本の若者を、日本のキリスト伝道のリーダーに仕立て上げてくれた精神を忘れてはならないのではないでしょうか。

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